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「病弱な升田幸三の前でわざと“大食漢”」「名人戦で負けたのに中原誠を激励」50期連続タイトル戦出場…大山康晴の盤上・盤外勝負術がスゴい
text by
田丸昇Noboru Tamaru
photograph byMasahiko Ishii
posted2023/11/29 11:01
生まれ故郷の倉敷市を訪れた際の大山康晴十五世名人
1949年頃の日本はひどいインフレで、棋士たちも生活が苦しかった。そのため日本将棋連盟は名人戦主催者の毎日新聞社に3倍増の契約金を要求した。ただ新聞社も経営が厳しい状況で、毎日の回答額はそれに満たなかった。連盟と毎日の協議は進展せず、ついに不成立となる。その後、名人戦主催者は朝日新聞社に移行した。そこには同社嘱託の升田の働きかけが影響したという。
毎日の大山に朝日の升田と、両者は盤上だけでなく盤外でも対立する関係になっていた。
1952年の名人戦で大山八段は、1949年に名人復位を遂げていた木村名人に再挑戦し、4勝1敗で破って29歳で新名人に就いた。敗れた木村は「良き後継者を得た」と語り、現役引退を47歳で表明した。さらに関西出身の棋士の名人獲得は初めてだったこともあり、新聞は見出しで「名人の箱根越え」と表現した。
「故郷の父からは、十五世を五つ取れと」
大山が故郷の岡山県に戻ると大歓迎を受けた。しかし、喜びは束の間だった。次期名人戦で防衛できるのだろうかと、その不安感に悩んだという。
大山名人は1953年と54年の名人戦で升田八段の連続挑戦を受け、いずれも4勝1敗で防衛を果たした。宿命のライバルと言われた対決を制し、それは大きな自信となった。升田の攻めを抑えた受け将棋にも磨きがかかった。ただ大山の将棋は受け一方ではなく、受けるのは攻めるための準備という戦略だった。
大山は1956年の名人戦で防衛し、名人獲得5期によって十五世名人の永世称号を取得した。同年7月の名人就位式では、「故郷の父からは、その十五世を五つ取れと激励された。あと四つだと早くても20年かかる。そのぐらいの気持ちで精進したい」と挨拶した。
その頃の大山は、勝つのが当たり前という気持ちだった。しかし、心の中にいつしか緩みが生じてきた……。
カメラマンの要求で大山は頭を下げる投了姿を…
1956年の王将戦で大山王将は升田八段に3連敗し、当時の規定で失冠した。さらに第4局は香落ち戦(升田が香を落とす)が行われ、大山は名人の立場で敗れる屈辱を喫した。大山の苦難はそれに留まらず、試練の日々が続いた。
1957年の名人戦で升田王将は大山名人を4勝2敗で破り、悲願の名人位を初めて獲得した。九段戦(竜王戦の前々身棋戦)でも大山を下したので、史上初の三冠王(名人・王将・九段)に39歳でなった。