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藤井聡太も達成の全冠制覇者・大山康晴だが…「見込みがない。田舎にさっさと帰りなさい」“兄弟子”升田幸三との確執が生まれるまで
text by
田丸昇Noboru Tamaru
photograph byJIJI PRESS/Keiji Ishikawa
posted2023/11/29 11:00
大山康晴十五世名人と藤井聡太竜王・名人(大山は1992年撮影)。同じ全冠達成者であるが、大山が頭角を現すまでの経緯とは?
結果は大山の3連敗だった。後年に鬼才と呼ばれた升田は、岡山で神童と言われた大山に玄人の厳しさを見せつけたのだ。一説によると、升田は「君は見込みがない。田舎にさっさと帰りなさい」と言い放ったという。真偽のほどは定かではない。
大山の内弟子生活での主な務めは、掃除、新聞の将棋欄の切り抜き、師匠が書いた原稿を毎日新聞社に届けることなどで、こまめに働いた。アマへの指導対局で謝礼をもらうようになると、手を付けずに師匠夫人に渡し、その1割を交通費と小遣いでもらった。
升田は囲碁を並べたり煙草を吸ったりして、気ままに過ごしていた。訪問客に酒を出すときは、用意したコップに注いでこっそり飲んだ。若い頃から酒好きだった。
このように生活態度は、真面目な大山に身勝手な升田と対照的だった。
当初は大山が攻め将棋、升田が受け将棋だった
大山は1935年11月、新設された関西の奨励会(棋士養成機関)に5級で入会。以後は順調に昇進し、1940年に四段に昇段して晴れて棋士にとなり、月給は45円を支給された。翌年に五段に昇段すると、木綿ではなくて絹の着物の着用を許された。それは木見一門の習いであった。
大山は内弟子時代、升田に実戦でよく教わった。当初は大山が攻め将棋で、升田が受け将棋だった。ある時期から両者の棋風は逆になり、升田の厳しい攻めを大山が懸命に受ける展開となった。大山は後年に、強靭な受け将棋を確立して天下を取った。攻めの升田との激しい申し合いで培われたといえる。
1935年に実力制の名人戦が創設された。そのトップリーグの八段戦で木村義雄が優勝し、1937年に初代の名人位に32歳で就いた。木村は第2期以降の名人戦で挑戦者を下し、無敵の存在として君臨し続けた。その強さは、大相撲で69連勝の大記録を達成した横綱の双葉山と並び称されたものだ。
大山と升田は“打倒・木村”に燃える同志に
関西棋界の大山と升田は、東都棋界の木村名人を目標に切磋琢磨していた。その木村は将棋大成会(日本将棋連盟の前身)の会長として、運営面も取り仕切っていた。当時の関西の棋士は東京の棋士と比べて、対局料が全般に低くて格差があった。そうした事情もあり、大山と升田は木村への対抗心を強く持った。