「広岡達朗」という仮面――1978年のスワローズBACK NUMBER
ヤクルト監督時代の広岡達朗は巨人を意識しすぎていた? 大矢明彦が指摘する“コンプレックスの所在”「他球団の話ばかりされるのは…」
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph bySankei Shimbun
posted2023/11/15 11:01
1978年のオールスターで言葉を交わすヤクルトの広岡達朗監督と巨人の長嶋茂雄監督。現役時代は巨人で“球界屈指の三遊間”を形成した
球団にとっても、そして大矢にとっても忘れられない一年。それが78年、広岡達朗監督の下でのペナントレースだった。この年は、チームにとって、そして大矢にとって、どんな一年だったのか、改めて記憶の糸をたぐってもらうことにしよう――。
間近に見るメジャーリーガーからの刺激
早稲田実業学校高等部から駒澤大学を経て、大矢がプロ入りしたのは70年のことだった。ドラフト7位指名であったものの、ルーキーイヤーから93試合に出場。翌年には早くも正捕手となり、オールスターゲームにはファン投票で選出された。72年にはダイヤモンドグラブ賞を獲得。その後も合わせると、計6回も受賞、ベストナインにも二度輝く、球史に残る名捕手の一人である。
78年は、大矢にとってプロ9年目、31歳になるシーズンであり、まさに心身ともに脂がのった全盛期にあった。前年の77年に右手甲を骨折していたものの、すでに完治しており、試合出場に関しては何も支障はなかった。
「この頃のヤクルトには、若松(勉)、松岡(弘)、安田(猛)と、昭和22年生まれの同級生がそろっていて、みんなが伸び盛り、働き盛りの頃でした。そんな時期に広岡さんが監督に就任して、徹底的に鍛えられました。今でも感謝しているのは、78年に初めての海外キャンプに連れて行ってもらったことですね」
この連載でも何度も触れているように、この年のヤクルトはアメリカ・ユマで春季キャンプを行っている。松園尚己オーナーが提案したブラジルキャンプを断ってまで、広岡がアメリカに固執したのは、「メジャーリーガーとの合同練習によって、本場のレベルを体感させたい」ということと、ジャイアンツコンプレックス払拭のために、「自分たちは誰よりもレベルの高い練習をしたのだと実感させたい」という狙いだった。
大矢にとっても、ユマでの日々は鮮明に残っている。
「このキャンプは、メジャーの選手を間近に見ることができるということが最大のメリットでした。サンディエゴ・パドレスと一緒に練習しましたけど、このときはオジー・スミスがまだ2Aだったのかな? 当時のアルヴィン・ダーク監督が“今年はこの選手を使うつもりだ”と言って、つきっきりで指導していました。それに、ドラ1で入団して活躍していたデーブ・ウィンフィールドもいましたね」