「広岡達朗」という仮面――1978年のスワローズBACK NUMBER
ヤクルト監督時代の広岡達朗は巨人を意識しすぎていた? 大矢明彦が指摘する“コンプレックスの所在”「他球団の話ばかりされるのは…」
posted2023/11/15 11:01
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph by
Sankei Shimbun
「一生忘れない」1978年開幕戦で味わった悔しさ
今から45年前、1978年の春の日のことを尋ねると、開口一番、大矢明彦はこんな言葉を口にした。
「僕はね、あれは一生忘れないですよ……」
ヤクルトスワローズの正捕手として、同年のリーグ制覇、そして初の日本一に貢献した大矢に尋ねたのは、78年4月1日、ペナントレース開幕日のことだ。76年シーズン途中に広岡達朗が監督代行から監督となり、77年にはチームを2位に躍進させ、「今年こそ初優勝を」と意気込んで迎えた開幕戦。この日、スターティングメンバーに彼の名はなかった。本人が述懐する。
「前年の77年にはダイヤモンドグラブ賞(現ゴールデン・グラブ賞)を受賞しました。でも、その翌年の開幕戦には出してもらえませんでした。理由? 正直、それは僕の方が聞きたいです。“まぁ、若い人を使いたいんだろうな”って思っていましたけど……」
大矢の言う「若い人」とは、プロ9年目を迎えていた八重樫幸雄のことである。この日、大事な開幕戦のスタメンマスクをかぶり、安田猛とバッテリーを組んだのが八重樫だった。大矢と八重樫は1969年ドラフトの同期で、1位指名されたのが仙台商業の八重樫、駒澤大学の大矢は7位での入団である。ドラフト同期ではあったが、年齢で言えば高卒と大卒で両者には4歳の開きがあった。
大矢の体調は万全で、オープン戦でもずっとスタメンマスクをかぶっていたが、結果的に開幕戦出場の栄誉に浴したのは八重樫だった。以来、彼のスタメンマスクは続いたが、4月28日の読売ジャイアンツ戦で走者との交錯による負傷で長期離脱すると、その後は大矢が本来の実力を発揮し、そのままチームを球団創設初となるリーグ優勝、日本一へと導いた。