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アントニオ猪木が“全盛期でも倒せなかった”外国人レスラー…猪木vsロビンソン「伝説の一戦」はいかに実現した? 試合時間“残り1分”の奇跡
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph by東京スポーツ新聞社
posted2023/10/06 11:00
1975年12月11日に行われた猪木vsロビンソンの一戦
たった一度の「猪木vsロビンソン」は奇跡の一戦だった
ロビンソンはこの馬場との初対決が実現した’76年から現役を引退する’85年まで、年2~3回のペースで10年間にわたり全日本に参戦し続けた。これは事実上、高額なファイトマネーを保証した上での10年間の大型契約。’76年の時点でもうすぐ40歳に手が届く年齢だったロビンソンは、現役最後の10年間を半ば全日本所属選手のような形ですごす道を選んだということだろう。それと同時に、馬場はそこまで破格の条件を提示してでも「猪木が倒せなかったロビンソン」を自らが下し、自らの手中に収めることにこだわったということだ。
ロビンソンは’76年7月に馬場に敗れたあと、主に“全日本ナンバー2”だったジャンボ鶴田のライバルとなったが、全日本のリングではウェートオーバー気味の上半身を隠すためかアマチュアレスリングのシングレット(吊りパン)で登場するようになるなど、コンディションの低下は明らかだった。’75年12月の猪木戦が、おそらく実力的に最後のピークだったのだろう。
もしロビンソンが新日本に留まり、猪木との再戦を何度か行ったとしても、年齢的に初対決ほどの試合内容は残せなかったと思われる。’75年12月11日蔵前国技館でのアントニオ猪木vsビル・ロビンソンは、両者が全盛期にたった一度だけ実現した、奇跡の一戦だったのである。