「広岡達朗」という仮面――1978年のスワローズBACK NUMBER
「もう使わんから、東京に帰れ」広岡達朗の非情宣告にも負けず…ヤクルト初優勝の功労者・井原慎一朗の告白「胴上げで落としてしまおうかと(笑)」
posted2023/09/29 17:32
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph by
Sankei Shimbun
「井原は投手ではない。投手以前の問題で失格している」
1978年6月、井原慎一朗はプロ野球人生初にして、唯一となる月間MVPを獲得する。しかし、この頃にはすでに右肩が悲鳴を上げていた。オールスター直前の7月18日、川崎球場で行われた大洋ホエールズとの一戦で「事件」が起こった。
この日、先発した会田照夫が4回4失点でマウンドを降りると、二番手として登板したのが井原だった。5回表、若松勉の11号2ランホームランが飛び出して逆転すると、リードを守ったまま8回を投げ抜いた。9回表を終えて得点は9対4。あと1イニング投げれば、井原に7勝目が転がり込む。
「でも、もう身体がいうことを聞きませんでした。僕の野球人生で、あれだけ疲れたことはなかった。広岡さんとしては、“これだけ点差が開いているんだから、最後まで投げてくれ”という思いだったんでしょう。まったく交代してくれる気配がなかったですから」
この回、井原は2つのフォアボールを与えて2失点を喫する。本人曰く「最後はバタバタだった」末の苦心の勝利だった。しかし、広岡のはらわたは煮えくり返っていた。野球を「男たちのドラマ」として描いた作家・近藤唯之の『引退 そのドラマ』(新潮文庫)には、この日の試合についてこんな一節がある。
《昭和53年7月18日、川崎球場で大洋対ヤクルト17回戦が行われ、井原は五回から会田照夫投手をリリーフした。試合は9対6で勝ち、井原は投球回数5回、投球数102球を記録した。しかし九回は疲れ果て、だれか交代してくれないかと、いやいや投げた。すると翌日の新聞に広岡達朗監督の談話がのっていた。
「井原は投手ではない。投手以前の問題で失格している」》
このときの心境を、45年後に改めて本人が振り返る。
「この日の川崎球場、よく覚えていますよ。あれだけ、“もう代えてくれ”と思って疲労困憊だったことはなかったですから。今から思えば情けないですけどね……」