「広岡達朗」という仮面――1978年のスワローズBACK NUMBER
「もう使わんから、東京に帰れ」広岡達朗の非情宣告にも負けず…ヤクルト初優勝の功労者・井原慎一朗の告白「胴上げで落としてしまおうかと(笑)」
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph bySankei Shimbun
posted2023/09/29 17:32
ヤクルト監督時代の広岡達朗(中央)。井原慎一朗(左)に対して「投手以前の問題」「東京に帰れ」など厳しい言葉を浴びせることもあった
この試合の後、肩の痛みを抱え、疲労度もマックスで初めてのオールスターゲームに臨んだ。遠征先の広島では、広岡からビールのもてなし(#1参照)も受けたが、コンディションは改善されなかった。そして、井原は広岡から非情な宣告を受けることになる――。
シーズン佳境で、まさかの登板機会剝奪の憂き目に
7月28日、オールスターゲーム明け最初の試合はナゴヤ球場での中日ドラゴンズ3連戦となった。遠征先の広岡の部屋に井原は呼ばれた。心のどこかでは「これまでの自分の奮闘を労い、調整のための休みをくれるのではないか?」という淡い期待もあった。しかし、もちろん広岡はそんな指揮官ではない。部屋に入るなり、広岡は言った。
「肩が痛いのか? もう使わんから、東京に帰れ」
たったそれだけだった。広岡は短く告げると、それ以降、井原の登板はしばらくなかった。井原が述懐する。
「僕としては、“えっ?”という感じですよ。で、実際にその後はしばらく試合で使ってくれませんでしたから。でもね、広岡さんの怖いところは、この言葉を受けて、僕がどんな行動をとるかを冷静に見ているところなんですよ。投げやりになったり、練習をさぼったりしないかを見極めているんです。ある意味、試されていたんです。そういうところが、広岡さんはズルいんです(笑)」
この直前には、エース・松岡弘が登板機会を剝奪され、「空白の26日間」を余儀なくされたことは、本連載「松岡弘編」ですでに述べたが、井原もまた同様の仕打ちを受けていたのである。当時の選手たちの話を総合すると、広岡が選手を評価する際には2つのパターンがあることがわかる。1つは「困難に見舞われたとしても、決して腐らずに黙々と自分の職務をまっとうしようとする選手」、そしてもう1つは「プロとしての負けん気を持って、相手に立ち向かう選手」である。