「広岡達朗」という仮面――1978年のスワローズBACK NUMBER
「もう使わんから、東京に帰れ」広岡達朗の非情宣告にも負けず…ヤクルト初優勝の功労者・井原慎一朗の告白「胴上げで落としてしまおうかと(笑)」
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph bySankei Shimbun
posted2023/09/29 17:32
ヤクルト監督時代の広岡達朗(中央)。井原慎一朗(左)に対して「投手以前の問題」「東京に帰れ」など厳しい言葉を浴びせることもあった
登板機会を剝奪されても、井原は腐らなかった。肩が痛くても走り込みはできる。黙々とランニングする姿を、コーチを通じて広岡は把握していたに違いない。井原が戦線を離脱した頃、心身ともにエネルギッシュな松岡が戦列に復帰する。松岡が大活躍を続ける中で、井原の体調も少しずつ回復していく。井原が言う。
「広岡さんには、シーズン全体を見通したある程度の予測があったのかもしれません。いろいろ周りを見ながら計算していたんでしょうね。僕は8月はほとんど投げていないけど、この間は復帰直後の松岡さんが先発に中継ぎに大活躍しましたから」
8月には失速し、首位・ジャイアンツとの差を4.5ゲームまで広げられたこともあった。それでも、悲願の初優勝に向けてヤクルトナインの目はまだ死んではいなかった。
「もしも優勝したら、胴上げで広岡さんを地面に…」
8月は10勝11敗6分と低迷した。幸いだったのは引き分けが6つもあったことだ。ヤクルトは「勝てなかった」が、「負けなかった」ことが後に生きてくる。8月にも登板していた井原だったが、9月が訪れる頃、少しずつ体調が回復している手応えをつかんでいた。
「この頃になると、優勝するという確信はなかったけど、選手たちの口から自然に“優勝するんだ”という言葉が出始めてきました。ある程度勝つ喜びを体験したことで、“ひょっとしたらいけるんじゃないか”という思いが芽生えてきたんだと思います」
この頃、選手たちの間で「もしも優勝したら……」という話題がしばしば上っていたという。
「もしも優勝したら、胴上げのときに広岡さんを地面に落としてしまおうかという声や、あえて胴上げを拒否しようという意見が出てきました。もちろん、冗談なんですけど、そういうことを言い合えるムードは、あのとき確かにありましたね(笑)」