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酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
“10代からの恩師”に中日で誰より怒鳴られても…杉下茂が大投手で名伯楽なワケ「巨人のコーチになったと言ったら“長嶋(茂雄)を”…」
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph byAsahi Shimbun
posted2023/06/21 11:01
1954年日本シリーズで中日を優勝に導き、MVPを獲得した杉下茂
「ボールを汚すな、大切にしろ、と言われていましたからワンバウンドさせられなかった。巨人の水原監督が〈杉下のフォークは見逃せばみんなボールだ〉と言うんで、巨人戦で三塁コーチに立っている水原さんに〈フォークを投げますよ〉と言ってフォークでストライクを取ったこともあります」
1954年、エースとして中日を優勝に導く
杉下茂の野球人生のハイライトは、1954年の優勝である。恩師の天知は、1951年オフに中日の監督から総監督になった。52、53年がともに3位に終わると、選手たちは「(後任の)坪さん(坪内道則 1914-1997、殿堂入り内野手)では優勝できない」という思いを募らせた。
「西沢道夫さんなど、主だったところが天知さんのところへ行って〈また監督を引き受けてください〉と何度も頼んだんです。でも僕はその顔ぶれからは除外された。〈天知さんと近すぎる〉というんですね。そのうちに天知さんから電話があって家に行ってみると、選手たちが集まっている。〈何ですか、これは?〉と聞くと〈俺にもう1回やれというから、お前どう思う?〉と言う。連中、凄い顔をしてこっちを睨んでいる。だから〈みんながやれと言うのなら、やったらどうですか〉と返したんです」
この時期には天知と杉下は、単なる師弟ではなく――親子のような深いつながりになっていたのだろう。天知は杉下の意志を確認して、1年限りの約束で中日監督に復帰した。なおこの年、中日は奈良でキャンプをしている。
「天知さんは一、二軍そろってキャンプをしたいと思っていた。奈良の春日野の原っぱで、こっちが一軍、こっちが二軍と分けて、一斉に練習した。でも寒かった。底冷えがしてみんな、風邪をひいて倒れた」
このときに天知監督は夜を徹して選手の看病をした。選手たちは天知の温情に感激した。また天知は、進んで選手と交わり、その中に入っていった。
「大広間で食事をすると、そこが若い選手の寝床になる。みんな雑魚寝をしている。監督や主力選手には個室があるんだけども、天知さんに〈スギ、こっちで寝ようや〉と誘われてそこで寝た。西沢さんも寝た。主力も若手も枕を並べてみんな一緒だったんです」
付き合いが長い杉下には厳しかったが
そして天知は、チームを徹底的に鍛え上げた。
「西沢道夫さんを打席に立たせて、天知さんがマスクをかぶって、僕に投げさせた。〈スギ、いい球を投げろよ〉と。1球ずつ〈今のはこうだ〉と分析しました。
当時、コーチはいなかった。天知さんは選手を一人一人指導したんです。僕が調子を崩したときもボールを受けてくれて、5~6球ほうったら、『スギ、わかった。お前ボールを進めようとして腰を回してるんじゃないか、腰を回してはダメだよ、腰が逃げとる』と言われた。そういうことがわかるんですね」
遊びたい若手には小遣いをやる、食事も食べさせる。天知は、給料をほとんど選手のためにつぎ込んだ。優しさ、思いの深さがあったから選手もついてきたのだろう。