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酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
杉下茂はジャイアント馬場19歳と投げ合っていた!「戦争で僕の乗った後の船は…」「大学でフォークを1球しか」90歳時に聞いた野球人生
posted2023/06/21 11:00
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph by
JIJI PRESS
2015年、筆者は、ジャイアント馬場の巨人投手時代を追いかけた「巨人軍の巨人 馬場正平」(イースト・プレス刊)を執筆中だった。
馬場正平(1938-1999)が生涯で唯一、一軍の試合で先発したのは1957年10月23日、後楽園球場の中日戦だった。中日の先発は、大投手の杉下茂。この時点で199勝、すでにリーグ優勝を決めていた巨人の水原茂(1909-1982)監督は、永年のライバルである杉下に200勝を進呈する気で、全く実績のない馬場を先発させたと言われている。しかし馬場は5回自責点1と、思いのほか好投したため、水原監督は馬場を降板させた。後続の投手が失点したことで、完封した杉下に勝ち星がついた。水原監督は馬場を「空気を読めないやつ」と嫌ったため、馬場は二度と一軍のマウンドを踏むことができなかった、と言われている。
馬場正平君については何も覚えていないんだよ
このあたりの事情を聴くために、2015年4月、杉下茂に話を聞いた。
指定された老舗ホテルのロビーで待っていると、長身の杉下が一人で現れた。杉下がロビーに足を踏み入れると、支配人と思しきホテルマンが駆け寄って杉下に深々とお辞儀をして、杉下と筆者らを談話室へと招き入れた。
戦後すぐから中日の大エースとして活躍した杉下は、半世紀以上にわたってこのホテルを利用してきた。自分の家に居るように、リラックスした表情でインタビューに応じた。まさにセレブだ。
杉下は開口一番、気の毒そうな顔をして、「馬場君と投げ合ったことも、何も覚えていないんですよ」と言った。彼の輝かしい経歴の中では、後のジャイアント馬場との対戦など、些事に過ぎなかったのだろう。
ただ馬場正平のことは以前から知っていた。新潟県出身だった杉下の母が、新潟から野球選手が出た、と言って大変喜んでいたそうだ。
杉下茂と恩師・天知俊一の出会い
馬場の話に続いて、筆者たちは「恩師」というテーマでも話を聞いた。
改めて杉下茂のキャリアを整理しながら、本人の回想を織り交ぜて野球人生を振り返っていく。
杉下は1925年9月17日、東京、神田に生まれる。帝京商業、明治大学などを経て1949年に中日ドラゴンズに入団。通算215勝123敗、防御率2.23、最多勝2回、最優秀防御率1回、MVP1回、沢村賞3回、1985年に野球殿堂入りしている。昭和中期を代表する大投手だ。
杉下茂にとって、恩師と言えば、商業学校(今の高校)から大学、プロまで指導を受けた天知俊一(1903~1976)に他ならない。その恩師と出会うまでに、すでに紆余曲折があった。