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「落合博満は練習嫌い」のウソ…当時チームメイトが語る“本当の落合論”「4割なんて打てるよ、と」「オチさんの目的は1つでした」
text by
岡野誠Makoto Okano
photograph byKYODO
posted2023/06/16 11:01
ロッテ時代の落合博満。当時チームメイトが語る“天才の実像”とは
待遇改善を訴えた“落合の交渉術”
落合は良くも悪くもイメージで語られている。神格化される打撃の一方、守備の評価は決して高くない。レギュラーになった当初、三塁に有藤道世、一塁にレオン・リーがいたため、アマチュア時代に経験のない二塁に回った。遊撃の水上はこう感じていた。
「私が組んだ中で、最も上手いセカンドでしたね。ハンドリングが柔らかくてお手本のような捕り方をするし、素直なボールを投げてくれる。横にスライドしないから捕りやすいし、次のプレーに移りやすい場所に来る。落合さんのおかげで、ダブルプレーを取れたケースが多かったと思います」
ロッテで西村徳文、広島で正田耕三など名手とプレーをした水上の中で、ナンバーワンの二塁手だったという。82年、落合はセカンドでは127試合に出場して7失策に収め、71の併殺に絡んだ(5月18日南海戦での三重殺含む)。ダイヤモンドグラブ賞は近鉄の大石大二郎に譲ったが、守備率はリーグ1位の9割8分9厘を記録。2人は二遊間だけでなく、83年からの2年間、選手会長・落合、副会長・水上としてもコンビを組み、待遇の改善を要求した。
「落合さんはすごく頭がいい。物事の核心を突いて、球団が断れない状況を作ってしまう。(本拠地の)川崎球場は一人ひとりの専用ロッカーすらなかった。市の持ち物だったので、ロッテがお金を出すといっても改修できるとは限らなかった。でも、たしか落合さんが『(84年に)日米野球でオリオールズが試合をする。大リーガーにあんな場所で着替えさせられないでしょ』と迫って変わった。少し区切られた程度でしたけど、川崎球場にとっては大改革でしたよ」
他にも、落合選手会長はグリーン車の乗車人数を18人から24人に増員させ、ユニフォームの支給も増やし、移動用のブレザーも新調させた。イメージ通りのタフネゴシエーターだった。
「落合=練習嫌い」のウソ…試合後の練習場で
現役時代、落合は〈練習は嫌い〉(1982年10月16日号/週刊現代)と度々公言していた。世間は本人の発言を真に受けた上で、“練習しない男”と拡大解釈した。だが、水上は実像を知っている。
「そんなことは全くありませんでした。自分が打てなくて負けるとユニフォームのまま、私と愛甲(猛)と打撃投手の立野(清広)を連れて、川崎球場の室内練習場に向かうんです。バックネット裏から撮った試合のビデオを見ながら、バッティングを修正していく。たぶん、頭の中に色々な引き出しがあって『このスイングをすれば、打球はこうなるはずだ』という方程式がある。そのやり方で上手く行かないと、『じゃあこのスイングをしよう』『こういう捉え方をしよう』と変えていました。緩いボールをセンターならセンター、ライトならライトと同じように打ち返していましたね。自分が納得できるまで続ける。10分で帰る日もあれば、数時間打ち込む日もありました。私が先に帰宅する日も珍しくなかった」