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熱狂とカオス!魅惑の南米直送便BACK NUMBER
「JALの人が飛行機ポーズを喜んで…(笑)」「浦和ではパジェロを」“Jリーグバブル裏話”を懐かしのFWトニーニョ58歳が告白
posted2023/06/18 17:01
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph by
J.LEAGUE
ブラジルの州選手権の中で最もレベルが高いサンパウロ州選手権の得点王に輝き、ブラジル代表にも選ばれた26歳のストライカーが1991年、Jリーグ開幕を2年後に控えた日本へ舞い降りた。
アマチュアだった日本サッカーリーグ(JSL)の最後のシーズン。フットボール王国ブラジルで傑出した力を発揮したストライカーは、環境面の違いなどに驚愕した。
センパイ、コウハイというヒエラルキーが衝撃だった
――当時の日本のフットボールの状況をどう思いましたか?
「ヨミウリの練習施設はまずまずだったが、『ホペイロ』(注:選手の用具を管理するスタッフ)がおらず、練習で汚れたユニフォームを自分で洗濯しなければならないことに驚いた。ブラジルでは、アカデミーの選手でもそんなことはしなくていいからね。でも、しばらくしてベゼーハというブラジル人のホペイロが来たので、助かった。
選手間にセンパイ、コウハイというヒエラルキーがあり、センパイがコウハイに買い物などの用事をやらせる風習があったのも衝撃的だった。日本には年長者を敬う文化があるのは理解できたが、それとこれとは違う気がした」
――JSLのレベルをどう思いましたか?
「当然、ブラジルリーグとはかなりの開きがあった。ヨミウリとニッサン(日産自動車)が双璧で、他チームとはかなりの差があった」
――読売クラブでは、1990年後半に帰国していたカズと再会します。久々にカズのプレーを見てどう思いましたか?
「僕たちは幼馴染のようなものだから、久々に会えてとても嬉しかった。人間性は変わっていなかったが、選手としては大きな変貌を遂げていた。ブラジル時代はドリブラーで得点は少なかったが、日本ではドリブラーにしてストライカー。日本ナンバーワンの選手となっていて、自信に溢れていた」
ヨミウリでプレーするつもりだった。ところが
――日本での生活とプレースタイルへの適応は容易でしたか?
「チームにはブラジル人が多かったから、馴染むのは簡単だった。生活面も、クラブのスタッフが僕と家族の世話を親身になって焼いてくれたから、何も問題はなかった」
――この年、読売クラブは日産自動車に大差をつけて最後のJSLで優勝。あなたは18得点をあげて得点王となり、ベストイレブンにも選ばれます。
「日本での生活環境とプレースタイルに順応でき、シーズンを通じてとてもいいプレーができた。引き続き、日本でプレーしようと思った」
――ただ、読売クラブで文句の付けようのないシーズンを送ったにもかかわらず、清水エスパルスへ移籍します。その経緯は?