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羽生善治が負けると女性ファンが泣いた…小学生からも大人気「ねえ、公文の人でしょ?」27年前“羽生七冠ブーム”はどんな社会現象だった?
posted2023/06/09 17:29
text by
近藤正高Masataka Kondo
photograph by
KYODO
「ねえ、公文の人なの?」27年前、羽生善治25歳の七冠独占とはどんな社会現象だったのか? 当時の証言から探っていく。【全3回の2回目/#1、#3へ】
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「ねえ、公文の人なの?」
1995年の王将戦は、阪神・淡路大震災により被災した谷川を応援する声が高まり、彼に対する追い風となった。とはいえ、それでも羽生が七冠制覇を実現するかどうかは世間の関心事であった。第7局の会場となった青森県十和田湖畔のホテルには150人を超す報道陣が詰めかけ、NHKのBSでの生中継も急遽決まる。午後9時18分、羽生が「負けました」と盤上に頭を下げた瞬間、ホテル内に設けられた大盤解説会場では、羽生の女性ファンが顔をおおって泣き伏す姿も見られたという。
羽生の活躍と、彼と同年代の棋士の台頭から、それまで将棋に関心を持たなかった若い女性のなかからもファンが増え始めていた。羽生ブームに乗じて、タイトル戦のほとんどで大盤解説会が開かれるようになり、ライブで楽しみたいと足を運ぶファンも増えていく。
羽生が当時、一般にも広く知られるようになっていたことを示す証拠としては、こんなエピソードも残る。それは彼が王将戦で谷川に敗れた翌々日のこと。羽田空港から飛行機に乗り込む直前、数人の小学生が羽生を見つけて近寄ってきた。そのうちの一人が「ねえ、公文の人なの?」に訊ねたので、羽生は「そうだよ。僕の名前知ってる?」と訊き返すと、「知らなーい」との答え。これに彼はうれしそうに笑って、自分から握手を求めた。
ここで出てくるとおり、羽生はこのころ、学習塾を国内外で展開する公文教育研究会のテレビCMに出演していた。子供たちに顔は知られるようになったものの、名前まではまだ浸透しておらず、「公文の人」とか「公文の兄ちゃん」と呼ばれるのが圧倒的に多かったという。
子ども100人と同時に指した
七冠に最初に挑んだころのCMでは、羽生が小学生たちを相手に「百面指し」をして評判を呼んだ。実際にはこのとき対局した子供は70人しかいなかったようだが、彼はこの1年ほど前の1993年7月には、富山県の将棋連盟のイベントで、正真正銘の百面指しを小中学生を相手に行っている。