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「20歳でトリプルスリー+二冠王4回」昭和の天才打者・中西太と毒島章一の濃すぎる大記録「なぜ2000安打直前で引退?」〈追悼〉 

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広尾晃

広尾晃Kou Hiroo

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posted2023/05/19 17:22

「20歳でトリプルスリー+二冠王4回」昭和の天才打者・中西太と毒島章一の濃すぎる大記録「なぜ2000安打直前で引退?」〈追悼〉<Number Web> photograph by JIJI PRESS

18日、エスコンフィールド北海道での試合では中西太さんの追悼映像が流れた

 引退後は、解説者を経て日本ハム、阪神で監督。ヤクルト、近鉄、巨人、ロッテ、オリックスでコーチを歴任する。「ベンチがあほやから野球ができない」と江本孟紀に言われた阪神の監督は中西太だ。

 現役時代のライバルだった山内一弘(和弘)とともに打撃指導では定評があり、若松勉、掛布雅之、宮本慎也、谷佳知、岩村明憲など数多くの巧打者・強打者から「恩師」と慕われた。

 その体型、そして三塁手ということからライオンズのはるか後輩、中村剛也とイメージが被るが、中村がボールをバットに乗せてスタンドに運ぶ「技術者」なのに対し、中西はハードパンチャーで、低い弾道からスタンドに突き刺さるような本塁打を打った。左右の打席の違いはあるが、村上宗隆の方がタイプが近いのかもしれない。

 西鉄黄金期を築いた「打の三傑」といえば大下弘(1667安打)、中西太(1262安打)、豊田泰光(1699安打)だ。いずれも2000本安打に到達していないが、野球殿堂入りしている。それだけ西鉄ライオンズの活躍が目覚ましく、当時の野球ファンに大きなインパクトを与えたのだろう。

 とりわけ中西太は、実質的な活躍期間は7年に過ぎないが、その7年の密度の濃さは比類のないものだったのだ。

張本、土橋らと東映を支えた毒島

 中西の逝去は5月11日だったが、その3日後の14日に、これも忘れ難い「昭和の名選手」が87歳で世を去っている。毒島章一だ。この選手はもう知る人も少ないだろう。

 野村克也、長嶋茂雄と同学年の1935年度生まれ。桐生高校から東映フライヤーズに入団し、東映一筋に18年。1962年のリーグ優勝、日本一のときは、水原茂監督のもと中軸打者の張本勲、エースの土橋正幸とともに大活躍した。

 179cm72kgのスリムな体。右投げ左打ち、駿足巧打の外野手で、3割は2回だけだが、常に.280前後をキープ、計算のできる選手だった。

 ながらく「通算三塁打」記録保持者だったが、1985年、阪急の福本豊が毒島の記録を抜いてトップに立った。しかし今に至るもNPBで100三塁打を記録したのは福本豊(115)、毒島(106)、金田正泰(103)の三人しかいない。

 外野手としては右翼が定位置。駿足強肩で6回も二けた補殺を記録。ベストナインには3回選ばれている。オールスターにも8回出場。パを代表する外野手だった。

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