酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
「20歳でトリプルスリー+二冠王4回」昭和の天才打者・中西太と毒島章一の濃すぎる大記録「なぜ2000安打直前で引退?」〈追悼〉
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph byJIJI PRESS
posted2023/05/19 17:22
18日、エスコンフィールド北海道での試合では中西太さんの追悼映像が流れた
なお1953年は36本塁打、打率.314に加え36盗塁を記録し、史上3人目、最年少の20歳でのトリプルスリーを記録している。
1956年は同僚の豊田泰光との首位打者争いとなったが、西鉄の三原脩監督は、最終戦で両者を休場させることでタイトルを確定させている。豊田は「三原監督に不信を抱くようになったきっかけになった」と語っているが、当時の感覚ではそういう決着しかなかったのだろう。豊田泰光は中西よりも1学年年下だが、強烈なライバル意識があり、口も利かなかった。
故障によって26歳頃からピークアウトしていった
当時の野球雑誌では「戦後初の三冠王は誰か」という特集が何度も組まれたが、専門家は口を揃えて「中西太だ」「時間の問題だ」と言った。三原監督にも「中西はいつでも三冠王がとれる」という認識があったからこういう判断をしたのだろう。
しかしその時は二度とこなかった。1959年、まだ26歳の中西太は腱鞘炎など手首に故障を抱えて満足にバットが振れなくなる。
それでも看板選手を出さないわけにはいかない。調子のよい時だけ出場して、悪い時はベンチという選手生活を実に11年も続けるのだ。
今ならもっと良い対処法があったと思うが――中西はだましだまし現役を続けた。
デビューから25歳の1958年までの7年間の成績は、
891試3167打988安190本610点132盗 率.312
その後の故障を抱えての11年間は、
497試949打274安54本175点10盗 率.289
満足に出場できなくなっても.289という高打率を上げているのは天才と言われた打者の片りんではあろう。前半7年間で132盗塁しているのも目を引く。2年目には36盗塁。174cm94kgという巨体で「怪童」と呼ばれたが、守備は俊敏で攻撃的。スナップを利かせた一塁送球はホップしていたという。そして塁に出ても積極果敢に次の塁を狙ったのだ。
中西は同郷の三原脩を慕って西鉄に入団したが、その後、三原の長女と交際するようになる。三原は「選手と監督が親子になるのは都合が悪い」と結婚には難色を示したが、二人はそれを押し切って結婚した。
掛布、宮本慎也、岩村らから「恩師」と慕われた
1959年限りで岳父の三原脩が西鉄監督を退任すると、川崎徳次が監督になるが、1962年に中西はプレイングマネージャーになる。1963年にはリーグ優勝を果たすが、1969年、プロ野球界を揺るがす「黒い霧事件」が発生し、その震源地だった西鉄ライオンズの監督だった中西太は、責任を取って監督を辞するとともに現役を引退する。ベストナイン7回、MVP1回。オールスター出場7回。
これほどの大選手でありながら、引退試合もセレモニーもなし。当時の西鉄周辺の空気からして仕方がないが、寂しい引退となった。