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“壮絶すぎる大流血戦”北斗晶vs神取忍はなぜ伝説になったのか? ロッシー小川が明かす30年目の真実「勝った北斗が試合後に泣いていた」 

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原悦生

原悦生Essei Hara

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posted2023/04/22 11:05

“壮絶すぎる大流血戦”北斗晶vs神取忍はなぜ伝説になったのか? ロッシー小川が明かす30年目の真実「勝った北斗が試合後に泣いていた」<Number Web> photograph by Essei Hara

1993年4月2日に横浜アリーナで行われた北斗晶vs神取忍。女子プロレス史に残る壮絶な流血戦を制した北斗は一気にカリスマへと駆け上がった

メインが終わったのは0時過ぎ…「帰宅難民」も

 北斗vs神取のセミファイナルが大盛り上がりだった一方で、割を食ったのがメインイベントに組まれたタッグマッチ(豊田真奈美・山田敏代組vs工藤めぐみ・コンバット豊田組)だった。試合開始前の時点で、時計の針は0時を回ろうとしていた。

「メインのタッグマッチはかわいそうでしたね。0時を過ぎると観客が帰り始めた。試合が終わるころには、半分も残っていなかった。試合を終えた豊田真奈美と山田敏代が泣きながら控室に戻ってきました。帰らなかったお客さんはあきらめて最後まで見て、試合が終わった後は、電車がないから朝まで飲んでいたということです。次の日、全女の営業が新横浜駅に始末書を持って謝罪に行きました。会場の横浜アリーナはお金さえ払えば問題なかったんでしょうけど、駅はそういうわけにもいきませんから」

 今風に言えば、多くの「帰宅難民」を女子プロレスが生んでしまったことになる。スポーツイベントのタイムスケジュールが厳密に管理された現代では、ほとんど考えられない話だ。

「帰るか帰らないかは、観客の選択でしたから。幸いにして、『タクシー代払え!』と言ってきた人はいませんでした(笑)。プロレスを見に行って、電車がなくなって、朝まで飲むなんて、今となっちゃ笑い話ですが、やっぱり特別な体験だったでしょうね」

 そうした種々のエピソードも、北斗vs神取が“伝説の一戦”になった要因かもしれない。小川は「北斗vs神取は相当美化されていると思いますよ」と語る。

「それから春には横浜アリーナというのが恒例になりました。全女の30周年が1998年。35周年が2003年。でも、その頃には女子プロレスが下火になっていましたね」

 1994年11月の東京ドーム大会は10時間の興行になった。

「『闘うトライアスロン』なんてサブタイトルがついていましたが、東京都の青少年に関する条例で、23時以降、18歳未満は保護者同伴でも観戦できないんです。その掲示がドームのスクリーンに映し出されたときはドキッとしました。でも、横浜の時と違って0時までに終わったのでホッとしましたよ」

 熱狂的な時代から冬の時代、そしてスターダムの繁栄まで女子プロレスに携わってきた小川は、「昔と比べちゃいけないんでしょうね」と静かに語った。

「昔はいろいろなことを考えましたよ。それこそ『デンジャラス・クイーン 東京裁判』とかね(笑)。昔は昔の良さがある。今は今で、昔にはない良さがある。選手が持っているものを出し切れば、ファンには満足してもらえるんじゃないのかな」

<続く>

#2に続く
「お前を地獄に引きずり降ろしてやる」ジュリアvs中野たむにロッシー小川が見出した“狂気”「30年前の北斗vs神取とは少し違うけど…」

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