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“壮絶すぎる大流血戦”北斗晶vs神取忍はなぜ伝説になったのか? ロッシー小川が明かす30年目の真実「勝った北斗が試合後に泣いていた」

posted2023/04/22 11:05

 
“壮絶すぎる大流血戦”北斗晶vs神取忍はなぜ伝説になったのか? ロッシー小川が明かす30年目の真実「勝った北斗が試合後に泣いていた」<Number Web> photograph by Essei Hara

1993年4月2日に横浜アリーナで行われた北斗晶vs神取忍。女子プロレス史に残る壮絶な流血戦を制した北斗は一気にカリスマへと駆け上がった

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原悦生

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スターダムは4月23日に横浜アリーナで『ALLSTAR GRAND QUEENDOM』と題したビッグマッチを行う。女子プロレスが横浜アリーナを使用するのはこれが9回目で、20年ぶりの開催になる。スターダムのエグゼクティブプロデューサーを務めるロッシー小川は、そのすべてにかかわってきた。その中には、1993年4月2日の北斗晶vs神取忍の一戦もある。あれから30年が経過した今、大流血を伴った“伝説の試合”について語ってもらった(全2回の1回目/後編へ)。

試合開始は23時過ぎ…北斗晶vs神取忍のウラ側

「名前的には、神取忍の方が上でした。1993年の全女(全日本女子プロレス)の25周年記念大会。あれが横浜アリーナを使った2回目(1回目は1989年5月の長与千種の引退試合)です。1992年の11月に川崎市体育館でプレオールスター戦みたいなのをやった。旗揚げして間もないLLPWの風間ルミと神取が来て、それを北斗晶が挑発したんです。北斗は宇野久子から名前を変えてメキシコ遠征に行った後で、キャラの原型ができた。『これで行ける』っていうか、そういうムードになってきていた。1993年の大会前の週かな。『週刊プロレス』が北斗と神取の顔を表紙にしたんです」

 ロッシー小川は30年前の“あの日”について語り始めた。

「インターネットなんかない時代ですから、メディアはテレビと新聞と雑誌だけでした。テレビは1カ月に1回の放送なので、あまり宣伝の役には立ちません。だから、新聞と雑誌という紙媒体に頼るしかなかった。雑誌が売れていた時代でしたね」

 その頃、『週刊プロレス』や『週刊ゴング』はそれぞれ20万部くらい売れていて、このプロレス専門誌の力が観客動員に大きく影響していた。

「想像を楽しむ時代でした。次の話題まで1週間ありましたから、その時間を使ってね」

 小川は当時を振り返り、「終電がなくなってしまったのは想定外でした」と苦笑する。

「夕方に始まって、試合がたくさんあったわけじゃないんですが、選手はみんなが1試合目からメインイベントという感覚で戦った。会場の使用時間をまったく気にしていなかった(笑)。全女のOGたちが集結したセレモニーとかもあって、セミファイナルの北斗vs神取は試合開始が23時を過ぎてしまった」

 さすがにまずいと思った小川は、試合前、北斗の控室に行った。

「北斗に『もうこんな時間だから、どうにかしてほしい』と伝えました。『わかりました』という返事はあったけど、試合は30分を超えるものになってしまった。全然わかってなかった(笑)」

【次ページ】 大流血した北斗晶は涙「もうプロレスなんて…」

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