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箱根駅伝PRESSBACK NUMBER
「悲劇の主人公のような扱いは嫌でした」箱根駅伝2区で大ブレーキ、櫛部静二が明かすアクシデントの“その後”「自分のために走ろうと決めた」
posted2023/04/14 11:00
text by
加藤康博Yasuhiro Kato
photograph by
Yuki Suenaga
城西大学男子駅伝部監督、櫛部静二は箱根駅伝を走る重みとプレッシャーを肌身をもって知ると自負する指導者だ。だからこそ今の若い選手たちに伝えたいことがある。自身の箱根での経験、そしてその先の世界へどう向かうべきなのか。現役時代を振り返りながら、指導哲学を語ってもらった《NumberWebインタビュー全2回の1回目/後編につづく》。
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現役時代、箱根駅伝とはどんな位置づけの大会だったのか。櫛部静二に問いかけると、こんな答えが返ってきた。
「私の気持ちとしては、多くのレースがあるうちのひとつの試合というくらいの位置づけでした。高校も駅伝を重んじる学校ではなく、顧問の先生から“いつかは日本代表に”と個人としての活躍を期待していただいていましたし、実際、ジュニアの世界大会にも早くから出場していました。早大に入ってからも引き続き、日本代表として走る機会もあり、オリンピックや世界大会を一番の目標にしていました。箱根はそこに向かうひとつのステップだったんです。あのアクシデントの前も後もそれはずっと変わらなかったですよ」
箱根駅伝で襲った“大ブレーキ”アクシデント
あのアクシデント。よく知られている箱根2区で櫛部を襲った脱水症状による大ブレーキだ。
山口県宇部鴻城高校時代に3000mSCと10000mで高校記録を樹立していた櫛部は同学年の武井隆次、花田勝彦とともに「早大三羽烏」と呼ばれ、世界を知る当時の早大コーチ、瀬古利彦の指導のもと、低迷していた早大の復権、そして将来の国際舞台での活躍が期待されていた。
だが1991年の第67回箱根駅伝。1年生ながらエース区間2区を任された櫛部は体調不良から、レース中に脱水症状を起こし、大きく失速してしまう。意識は朦朧とし、左右に蛇行しながら何とか中継所にたどり着いたが、その姿は衝撃をもって多くのファンの心に刻まれた。