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無名の公立校はなぜ“センバツ初出場→優勝”できたのか? 観音寺中央エースが明かす“あの快進撃のウラ側”「今は校歌も変わっちゃった」
text by
田口元義Genki Taguchi
photograph byJIJI PRESS
posted2023/04/01 06:01
1995年、春のセンバツ。初出場の県立高校が強豪校を次々と撃破し、頂点まで上り詰めた
プロ入り多数の強豪を完封
センバツの出場権を懸けた94年秋。
観音寺中央は新チームの始動から四国大会の準決勝で今治西に敗けるまで、27連勝と破竹の勢いを持続させた。公式戦ではエースの久保がほとんどの試合を投げ抜き、チーム打率はセンバツ出場校中トップの3割9分7厘。初出場ながら実力のあるチーム。それが、観音寺中央の評判となっていった。
「初戦が一番きつかった」
噂の初出場校のマウンドを託された久保が言った。甲子園に初めて足を踏み入れた者だけが味わえる魔物の洗礼。緊張感で支配されたのが藤蔭との初戦だ。3回までの4安打2失点を「ほとんど覚えていない」という発言がその証拠であり、平常心を取り戻してきた中盤以降の6イニングは3安打無失点に抑えている。
久保は高校時代のピッチングで、このセンバツが「一番よかった」と振り返る。なかでも「野球人生のベストピッチ」に挙げたのが、東海大相模との2回戦だ。巨人にドラフト1位で入団する原俊介、中日2位の2年生・森野将彦が名を連ねる強力打線を相手に、久保は140キロを超えるストレートにスライダーを効果的に織り交ぜ凡打の山を築く。4安打、109球の完封劇。「全部がハマっていました。純粋にパフォーマンスがよかったです」と自画自賛できるほど、圧巻の投球内容だった。
そのベストを体現した久保が肩の異変に気付いたのは、東海大相模戦の直後だった。
肩に異変…なぜ「すぐ消えた」?
監督の橋野に告げながらも登板を志願し、翌日の星稜との準々決勝のマウンドに上がったものの調子が上がらない。「天才」と呼ばれる2年生エースで、のちに慶應大を経て近鉄に1位入団する山本省吾とも自信を持って投げ合ったとは言い切れず、7回途中4失点で降板した。
関西との準決勝では、広島に2位で入団することとなる左の好投手、吉年滝徳を打線が捉えて13得点と爆発した一方で、久保は5回途中4失点でノックアウトされていた。
満身創痍とも言える状態だった久保に、またも「突然」が訪れたのは決勝前夜だった。「不甲斐ない」と久保を悩ませていた肩の不安は、いきなり解消されたのである。
悩めるエースを案じたチームが地元で世話になる整体師を大阪の宿舎まで呼び、久保が肩の状態を診てもらうと、治療はあっという間に終わった。どうやら亜脱臼のような症状で、痛みはすぐに消えた。