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無名の公立校はなぜ“センバツ初出場→優勝”できたのか? 観音寺中央エースが明かす“あの快進撃のウラ側”「今は校歌も変わっちゃった」
text by
田口元義Genki Taguchi
photograph byJIJI PRESS
posted2023/04/01 06:01
1995年、春のセンバツ。初出場の県立高校が強豪校を次々と撃破し、頂点まで上り詰めた
彼らが入学した当初は、まだ観音寺商だった。関西や関東からも有望選手が集まるなか、同じように橋野から声をかけられた久保は当初、逡巡していた。というのも、成長痛で腰に不安を抱えていたからである。
「全国を飛び回ってでもいい医者を見つけて、腰を治すから来てほしい」
真っ直ぐな口説き文句に惹かれた久保は、観音寺商への進学を決意する。
「鬼」から「仏」に。監督の変化
橋野という指導者は「当たり前」から逆行していた。久保たちが入学して最初に橋野から課せられたのは、学校周辺の清掃。その時の監督の言葉は、今も胸に焼き付いている。
「野球で日本一になるのは難しいけど、私生活の日本一は誰でも目指せるんだからな」
橋野がこの方針に辿り着いたのは、「鬼」の時代があったからだという。
丸亀商での青年監督時代、選手を力で抑圧するような前時代的指導をしていた橋野は、「自分の息子にも同じことができるのか? された親の気持ちを考えたことはあるのだろうか?」と、自問自答するようになっていた。そして、観音寺商に赴任する頃には指導法を改め、体罰は論外、練習中の水分補給も自由とした。なにより、合理的な見地から選手の自主性を尊重するようになった。
鬼から仏に。そんな橋野の寵愛を受けて育ったのが、久保たちだったのだ。
「甲子園を狙えるかもしれない」
ピッチャーとして入学しながら、監督からの「打てるキャッチャーがいない」という助言でコンバートし、チーム事情によって2年生の夏前に再びピッチャーとなった久保は、橋野によって生かされた選手だった。
まず、キャッチャーをしたことによってスローイング技術が向上した。強く腕を振り切りながらも各ベースへ正確に投げるための練習が、ピッチャーに再転向後も役立ったのだ。
練習の効率化もそうだ。ブルペンでの投げ込みは1日100球程度で、3日に1回はノースロー調整。ウエートトレーニングや走り込みも重量やタイムなど設定値を決め、しっかりと段階を踏んでいけたと、久保は言う。
「気合いだ、根性だって感じではなかったです。当時としては科学的なトレーニングだったというか、練習からチームとして目指すべきものが明確でした」
観音寺商から観音寺中央に校名が変更された94年夏。久保たち2年生8人がレギュラーのチームが香川大会ベスト4となったことが自信となり、「甲子園を狙えるかもしれない」と聖地を現実的に見られるようになった。