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無名の公立校はなぜ“センバツ初出場→優勝”できたのか? 観音寺中央エースが明かす“あの快進撃のウラ側”「今は校歌も変わっちゃった」
posted2023/04/01 06:01
text by
田口元義Genki Taguchi
photograph by
JIJI PRESS
ジャージー姿の久保尚志は阪神電車内の中吊り広告を見ていた。金メダルに紫紺のリボン、銀メダルに深紅のリボンが並ぶそのポスターを、仲間たちも眺めているようだった。
「どうせなら持って帰ろうよ、これ」
そのうちのひとりが言った。「これ」と指したのは金メダル。すなわち優勝だ。決勝まで勝ち進んだ観音寺中央の選手たちは、日本一を意識するようになっていた。
28年前のセンバツ…あの快進撃
1995年、春のセンバツ。
この年の1月17日に起きた阪神・淡路大震災によって、甲子園球場のある西宮市も大きな被害を受けた。球場はスタンドの一部に亀裂が生じる程度で事なきを得たが、阪神高速の橋げたが落下するなど交通網が寸断された影響で、本来、専用バスで球場入りする出場校の選手たちは、公共交通機関での移動を余儀なくされた。大会も自粛ムードが漂う世間に倣い、開会式は簡素化、チームの応援もブラスバンドなどの鳴り物の使用を控えた。
少し萎縮したムードのなか開幕したセンバツを沸かせたのが、観音寺中央だった。
初出場の県立高校。そんな無名のチームが、全国に名だたる強豪校を次々と撃破し、遂には頂点まで上り詰めたのである。
「本当に『1回、勝てればいいな』と出たセンバツで優勝ですから。まさか、でしたよね」
優勝の原動力となったエースの久保は、28年前の快進撃を短く噛みしめる。
「3年計画」の中身
観音寺中央がセンバツに出場するまで、観音寺市のある香川県の西部、西讃地区から甲子園に出た高校はなく「なんとか西讃から」は、地域の悲願でもあった。
高校野球途上の地での「まさか」の第一歩。それは、橋野純の監督就任である。
母校である丸亀商(現丸亀城西)を20年間指揮し、チームを春夏合計7度の甲子園へと導いた。80年のセンバツではベスト4と、経験、実績ともに豊富な橋野が92年から観音寺中央の前身である観音寺商に赴任。「3年計画」と位置づけたチーム作りに着手したのが、久保たちの世代だった。