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プロレスの常識をぶっ壊した“理不尽大王”冬木弘道の早すぎる死から20年…蝶野よりも早い“悪役”パイオニア、邪道&外道を見抜く慧眼
text by
高木圭介Keisuke Takagi
photograph by東京スポーツ新聞社
posted2023/03/19 11:01
2002年4月14日、ディファ有明で行われた冬木弘道の引退試合。この10日前、控え室で大腸がんを患っていることを明かした
また、それまで確固として存在していたプロレスラーの格、引っ繰り返しようのない序列の破壊を実行したのも冬木だった。
力道山以来、日本のプロレス界は厳しい上下関係や徒弟制度etcと大相撲からの流れを色濃く受け継いでいたが、冬木はそういった業界内の常識を嫌っていた。付き人もいらないし、「自分のことは自分でやれよ」といったスタンスで、どこかアメリカナイズされた合理主義を貫いていた。
今では失われた感覚なのだが、90年代前半のプロレス界では日本プロレス、国際プロレス、新日本プロレス、全日本プロレス、あるいはUWFで育っていない選手は「プロレスラーにあらず」という目で見られ続け、決して認められない風潮が根強かった。学生プロレス出身など言語道断という雰囲気だった。
だが冬木は選手の実力を厳しく見極めこそしつつも、その選手のバックボーンや出身団体などには左右されないフラットな視点を持っていた。要は「仕事ができるか、できないか」のみ。
その厳しくも柔軟な視点こそがTPG(たけしプロレス軍団)でプロレスラーとなった邪道&外道を重用することにつながる。のちにWWEなどで世界のトップ選手となるクリス・ジェリコ(当時はライオン・ハートとして来日)を冬木軍の一員「ライオン道」として重用したのも冬木の慧眼だった。
トップ選手として活躍したのは10年足らず
それまで裏方や中堅レスラーとして活躍していた冬木が理不尽大王として大ブレイクし、トップ選手として活躍した期間は、わずか10年にも満たなかったことになる。
あれから20年、かつて冬木が忌み嫌っていた理不尽な徒弟制度や選手を出身団体によって格付けしたり、延々とレッテルを張り続けるシステムは、もはや前時代の遺物となりつつある。