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プロレスの常識をぶっ壊した“理不尽大王”冬木弘道の早すぎる死から20年…蝶野よりも早い“悪役”パイオニア、邪道&外道を見抜く慧眼
text by
高木圭介Keisuke Takagi
photograph by東京スポーツ新聞社
posted2023/03/19 11:01
2002年4月14日、ディファ有明で行われた冬木弘道の引退試合。この10日前、控え室で大腸がんを患っていることを明かした
冬木といえば、見事な太鼓腹がトレードマーク。実はあれ、単なるグータラな太鼓腹というわけでもなく、苦労して作り上げた賜物。だいたい120~130kgの体重を維持していた本人曰く「オレは放っておくと痩せちゃう体質なんだ。だから無理して食べて、太った身体をキープしてるんだよ。やっぱりヘビー級のプロレスをするには、こっちも最低110kg以上はないと、簡単に吹っ飛ばされちゃうから怖いんだよ」とのこと。
結構、無理に食べたりしてあの太鼓腹をキープしていたのだ。もしかすると、そんな長年の食生活が寿命を縮めてしまったのかも知れない。
蝶野正洋より早かった“悪役”の確立
どちらかといえばタッグマッチにおけるパートナーや裏方としての仕事ぶりが光る中堅レスラーだった冬木が、理不尽大王としてプロレス界で存在感を示し始めた契機は、天龍源一郎率いるWARに所属していた94年4月21日、岐阜・大垣城ホール大会のことだった。
冬木はその日の試合後、それまで仕えていた天龍に反旗をひるがえし、WARに参戦し始めたばかりの邪道&外道(現・新日本プロレス)を引き込んで冬木軍を結成したのだった。
新聞や雑誌の取材陣にまで毒を吐きつつ、メディアをも巻き込みつつ話題を作る。それまで地方巡業用の前哨戦として軽視されがちだった「6人タッグマッチ」の面白さを追求して啓蒙。勝っては驕り高ぶり、負けては恥も外聞もない負け惜しみを連発――といった具合で、必ずそのコメントが記事になるように仕向けるなど、冬木はそれまでにない知的な悪役像を確立したパイオニアでもあった。それは新日本プロレスで蝶野正洋が「黒い総帥」に変身(94年9月)するよりも半年ほど早かった。