- #1
- #2
競馬PRESSBACK NUMBER
26歳で電撃引退、“伝説の女性ジョッキー”はなぜアメリカへと向かったのか? 日本時代は「“客寄せパンダ”でした」「先輩は厳しかったけど…」
posted2023/03/05 17:00
text by
大恵陽子Yoko Oe
photograph by
JIJI PRESS(L)/Nanae Suzuki(R)
今から37年ほど前、ようやく海外旅行が普及しはじめた時代にアメリカに渡り、騎手として活躍した女性がいる。彼女の名は、土屋薫さん。地方競馬の南関東では初となる女性騎手としてデビュー、一度は引退するも渡米し、ダート競馬の本場・ケンタッキーで通算263勝を挙げる活躍を見せた。
海を渡った先駆者に充実した日本時代から渡米の決断までの話を聞いた。(全2回の第1回/続きは#2へ)
海を渡った先駆者に充実した日本時代から渡米の決断までの話を聞いた。(全2回の第1回/続きは#2へ)
「男の子が泣くんじゃない」と怒られました
――土屋さんは父が地方競馬・浦和競馬の調教師、姉は獣医師でのちに同地で調教師になりました。幼少期から馬が身近だったのでしょうか?
土屋薫氏(以下、土屋) 厩舎で育ったので、八百屋さんの子供が学校から帰ってきたらお店を手伝うのと同じように、朝は通学前に馬の調教を手伝ったり、馬房掃除をやっていました。
――お皿を並べる手伝いをするような感覚で馬に乗っていたんですね。
土屋 小さい時は騎手になりたいと思っていましたし、子供がジョッキーになることは父の夢だったんです。私には姉が2人いて、母が3人目を妊娠した時、父の酒飲み友達が「今度は男の子だ。顔を見れば分かる!」って毎晩のように話していて、生まれてきたのが私でした。だから、小さい時は男の子として育てられて、泣いて帰ってくると「男の子が泣くんじゃない」と怒られました。周りの人からは「僕」と呼ばれて、髪の毛は短く、父とお揃いの服を着ていました。だから、小学校に入るまでは性別が女だって知らなかったんです。
私とお友達になってくれるアメリカ人はいませんか?
――すごい。ある意味、英才教育ですね。その後もずっと競馬と関わりがあったんですか?