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競馬PRESSBACK NUMBER
26歳で電撃引退、“伝説の女性ジョッキー”はなぜアメリカへと向かったのか? 日本時代は「“客寄せパンダ”でした」「先輩は厳しかったけど…」
text by
大恵陽子Yoko Oe
photograph byJIJI PRESS(L)/Nanae Suzuki(R)
posted2023/03/05 17:00
日本馬、騎手の海外遠征が珍しかった1980年代にアメリカへと渡った土屋薫さん。“公営のアイドル”と呼ばれた日本時代について話を聞くと…
土屋 高校生の頃はドラマ『人気家族パートリッジ』や、音楽グループ『オズモンド・ブラザーズ』が流行っていて、「アメリカっていいな」と思いました。それでどうしてもアメリカに行きたくて、高校3年生の時に短期留学しました。
――最近でこそ留学は一般的になってきましたが、1970年代は海外に行くこと自体、敷居が高かったのではないですか?
土屋 父はまるっきり反対で、何とかアメリカにコネを作らないと、と日々悶々と考えました。ある日、NHKを見ていたら、日本の高校でアメリカのレスリングチームと試合をやっていることを伝えていて、「これならいけるかもしれない!」と思い、NHKにその高校の電話番号を教えてもらいました。「レスリングの選手の中で姉妹がいて、私とお友達になってくれるアメリカ人はいませんか?」と問い合わせたところ該当者がいて、次の日には会いに行きました。その後、無理矢理私の家に連れてきて父に紹介すると、父はその子が何でも美味しそうに食べるのを喜んで、「この家族なら大丈夫だ」と思ったそうです。その人のお姉さんとの文通を経て、1カ月半、ホームステイをさせてもらいました。
ジョッキーになると、新年会も忘年会もあるぞ
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――ものすごい行動派!そこからどう競馬の世界に戻ってきたんですか?
土屋 高校を卒業したらアメリカの大学に行きたいと父に交渉しました。そしたら、「1年間、うちの厩舎で働いたら行ってもいいぞ」ということで、見習い騎手のライセンスを取って朝の調教に本格的に乗り始めたら「浦和にジョッキーの卵、誕生」と報じられてしまいました。
――あれ? ジョッキーになるために乗っていたわけではないのに。
土屋 父は詐欺師の才能があるんじゃないかってくらい交渉が上手くて、その時に「ジョッキーになると、新年会も忘年会もあるぞ」と言われて、ついついそれに釣られました。でも、どこの会社でも新年会や忘年会ってあるんですね。ジョッキーだけじゃなかったなんて。
同じ日本語を話しているのに通じないジレンマ
――お父さん、策士ですね。再び競馬界に戻ってきたわけですが、騎手になるための学校である「地方競馬教養センター」の当時の募集要項には年齢とともに「少年」と性別の指定が記されていました。どう突破したんですか?