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競馬PRESSBACK NUMBER
26歳で電撃引退、“伝説の女性ジョッキー”はなぜアメリカへと向かったのか? 日本時代は「“客寄せパンダ”でした」「先輩は厳しかったけど…」
text by
大恵陽子Yoko Oe
photograph byJIJI PRESS(L)/Nanae Suzuki(R)
posted2023/03/05 17:00
日本馬、騎手の海外遠征が珍しかった1980年代にアメリカへと渡った土屋薫さん。“公営のアイドル”と呼ばれた日本時代について話を聞くと…
土屋 メディアに「浦和に女性ジョッキーの卵誕生」と出たこともあってか、募集要項が「男子のみ」から「17歳以上の者」に変わったんです。それでも長期課程は男子のみで、乗馬経験者が対象の短期課程に入りました。
――週刊誌などでも取り上げられていましたが、中にはグラビアアイドルでもないのにスリーサイズが書かれている記事もあって、驚きました。
土屋 スリーサイズなんて言っていないんですよ。まだ自分が海のものとも山のものとも分からない状態での取材はすごく嫌でした。記者の頭の中にすでに「勝ち気な女の子が、生意気にもジョッキーになる」というイメージがあって、それに沿って書かれたり、同じ日本語を話しているのに通じないジレンマもありました。すでに騎手として成功していればまた感じ方も違ったと思うんですけど、ごく普通に女子高生をやっていたのが、たまたま珍しい職業を選んだからといって目立つというのは違和感がありました。
「馬鹿野郎!」と怒鳴ってくれて
――1978年5月にデビューして、レースやジョッキー生活はどうでしたか?
土屋 レース前夜から入室が義務付けられている調整ルームではお風呂の時間帯を分けて入れるようにしてくださったり、小さいですけど着替える場所を作ってくれました。地元で育ちましたから、先輩ジョッキーたちはみんな知っているお兄ちゃんたちで、弟みたいにいろいろ指導してくれました。レースでミスした後は「馬鹿野郎!」と怒鳴ってくれて。
――怒鳴られたのに、「怒鳴ってくれた」というのは?
土屋 その先輩がギャンギャン怒ってくださることで、他のジョッキーは「まあまあ、そこまで怒らなくてもいいよ」と感情が収まっていました。それは決してパワハラではないんですよね。私のミスによって自分や他のジョッキーが大怪我をする場合もありますから、そこでしっかりと怒ってもらわないといけません。そうして教えてもらったことはかえって良かったと思うんです。温かい環境でジョッキーとして成長できてありがたかったですし、セクハラとはまるっきり無縁の環境でした。
台風でも開催強行、屋根はなくなっていた
――所属した浦和競馬場はどんな所でしたか?