プロレス写真記者の眼BACK NUMBER
「猪木さんのサービス精神はスゴい」店の外で“即席ビンタ会”開催…地鶏も闘魂も燃えたアントニオ猪木の豪傑伝説「4人前を端から一気に」
text by
原悦生Essei Hara
photograph byEssei Hara
posted2023/02/19 17:01
アントニオ猪木が好んだ『鳥亭』のもも炭火コロ焼き。客席からも豪快な炎のパフォーマンスを見ることができる
猿渡さんは猪木にまつわるメニューをよく覚えている。
「アントン・ラーメンというのもありましたね。飛騨高山の『板蔵』というお店で、猪木さん専用のラーメンを出したことがあるんです。コロナで規模を小さくしちゃって、発送はもうやめてしまったので、今は違う麺ですけど。猪木さんは生姜をいっぱい入れたつくね鍋に、その麺を入れていました。あれに醤油をドバドバ入れて……猪木会長のやることだから誰も文句は言えません(笑)。闘魂焼酎というラベルのお酒も出しましたね。猪木さんは焼酎を少し飲んでいました。あとはワインの持ち込みですね。オーパスワンの特大(ダブルマグナム)を持ってきたこともあります。もらったんですか、って聞いたら『まだ、3、4本あるよ』って笑っていました」
猪木は生エノキサラダをよく頼んでいた。普通に売られているエノキは生食には適さない。生で食べられるエノキは希少性が高く、魅力的だ。
「エノキをボクたちで上田に作りにいったんです。いろいろ配合して生で食べられるものを、と。商標登録も済ませて、2年前まで店で出していたのは自分たちの生エノキでしたが、生産者が亡くなってしまったので、今は違うところから買っています」
ジャイアント馬場も商店街の常連だった
「話は変わりますが、昔、ジャイアント馬場さんがこの商店街にあった床屋さんによく来ていたんですよ。馬場さんが亡くなった後も、店にはプロレスの大きなポスターが貼ってありました」
馬場は和田京平レフェリーに勧められ、四の橋商店街(現・白金商店街)で理容師の吉田善保さんが営んでいた『理容ヨシダ』に月2回のペースで20年間も通っていたという。
BI砲のふたりが、時期こそずれているとはいえ、小さな商店街に頻繁に顔を出していたのは何かの偶然なのだろうか。
「猪木さんを見かけると商店街の人がよく寄ってきました。みんな猪木さんと、馬場さんとの昔話をしていましたね」
猪木の父、猪木佐次郎さんは鹿児島県出水市の出身だが、旧制熊本一中から関西大学に進んだ。戦前の内務省を経て石炭問屋を継いだが、横浜で政治家を志した。だが、選挙中に亡くなった。猪木が5歳の時だった。
猪木はおじいさんっ子で母方の祖父・相良寿郎さんに育てられた。猪木の母親の文子さんは、熊本の人吉の生まれだったと聞く。
猪木は両親とかかわりのある熊本が気になったのだろうか。行きつけの蕎麦屋『かわしま』も含め、熊本にまつわる話は多い。馴染みの店を巡りながら、そんなことを考えていた。
<続く #3、#4、#5は2月20日公開予定です>