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「野村監督は環境を変えた方がいい、と」ヤクルト移籍→戦力外から10年、一場靖弘が子供に野球を教える理由「野球がうまくても…」
posted2023/01/07 11:02
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph by
Kou Hiroo
明治大学から楽天へ、多難な船出をした一場の野球人生は、故障もあって順風満帆とは言えなかった。
2008年、0勝に終わった一場に対し、大学時代から彼を知る野村克也監督は、一場の今後について身の振り方を考えていた。そして2009年のシーズン開幕前に一場は宮出隆自とのトレードでヤクルトに移籍する。
野村監督は僕に「環境を変えたほうがいい」と
「野村監督とヤクルトの高田繁監督が話し合いをしてトレードが決まったようです。発表の前日に言われました。『こんな時に言うのか』と驚きましたが、成績残していないし仕方ないな、とも思った。野村監督は僕に『環境を変えたほうがいい』と言いました」
楽天で背番号「11」をつけていた一場は、ヤクルトでは「43」になった。
「ヤクルトは、アットホームでやりやすい雰囲気でした。東京六大学で一緒にやった青木宣親さんがいましたし、結構知っている人もいたので、すんなりとチームに溶け込めました。でも移籍して1年目は一番右肩が上がらなかったんです。本当にしんどくて、毎月肩の前と後ろに2発ずつ注射を打ってマウンドに上がっていました。
肩が痛い時は球速140km/h台後半まで下がりますが、注射を打つと150km/hまで戻ります。でも、薬が切れた時がヤバい。痛くて車も運転できない。野球が楽しくない、故障との戦いになってボールも投げられないし、投げられないと使ってもらえないからしんどいなあ。大学時代はあんなに投げられたのに、そんなに投げられなくなるものか、と思っていました」
さらにこうも語る。
「プロはストライクゾーンを9分割して考えます。野村監督は9×9の81分割でしたが、ヤクルト時代は細かなコントロールはもうないから、ストライクゾーンは内か外かの2分割でした。細かいこと考えるのはもうやめようと。それが今度は股関節をやって、足が開かなくなって、ついに投げられなくなって、2012年に戦力外通告を受けました」
今では営業もパソコンも“イラレ”もできますよ(笑)。
一場靖弘のNPBでの成績は、実働6年、91登板16勝33敗1セーブ、428.2回322奪三振、防御率5.50に終わった。
「プロ入り前から本当に色々なことがあって、今思うのは、技術もそうですがメンタルがめちゃくちゃ大事だということですね。変な話、大学の時は練習しなくても気持ちだけで投げることができた。もちろん練習はしましたけど、絶対打たれないと思ってマウンドに上がっていましたし、打たれてもなんとも思わなかった。“次は抑えてやるよ”と思っていましたから」