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ドラフト1位公表“1時間前の知らせ”に「まさか」…楽天・荘司康誠が語る“リーグ戦わずか2勝”の立教大時代「学生コーチ転向も考えていた」
text by
田口元義Genki Taguchi
photograph byJIJI PRESS
posted2022/12/21 17:31
ドラフト1位指名を受けた楽天に入団する荘司康誠。右は沖原佳典スカウト
「自分では復帰への道筋を立てているつもりでも、肩の痛みがなくならなかったんで。そこの葛藤というか、悩みはありましたね」
この頃の荘司には、自らを奮い立たせる材料が必要だったのだ。そのひとつが言葉であり、たどり着いたのが「信は力なり」だった。
目立った実績はゼロ。荘司の中高時代
荘司の野球人生は、どちらかと言えば本流ではない。ただ、「信」が通っている。
中学2年時に腰椎分離症を患い、所属チームの新潟西シニアを卒団するまでほとんど投げることができなかった。
高校も最初は躓いている。「野球と勉強を両立させて東京六大学に行く」ことを望み、公立の進学校を受験したが失敗。滑り止めの新潟明訓への進学を決めたのは、野球の強豪校というブランドだけでなく、新潟県の私立のなかでも学力レベルが高く、東京六大学を含む指定校推薦が多かったからだ。
新潟明訓時代の荘司は「無名」と簡潔にまとめられがちだが、それは、甲子園出場経験がなく、3年夏の県大会では初戦敗退していたためである。しかし実情は、相手がシード校クラスの北越で「1回戦屈指の好カード」と注目を浴びていたし、この時のストレートの球速は130キロ台ながら、高校野球専門誌などでは新潟県の注目ピッチャーに名を連ねていた。
「自信があったわけではないです」と、当時の実力を俯瞰しながらも東京六大学への進学という初志を貫いたのは、「このままでは終われない」という反骨心が芽生えたからだった。
立教大も実は最初の志望先ではなかった。
当初は早稲田大への進学を希望していたが、立教大へ進んだ高校のOBが複数おり、話を聞いているうちに「自分に合っているかもしれないな」と感じ、進路を変更した。
望んだとおりに進まなかった野球人生。
「そういう運命だったのかな、と思います」
荘司が笑う。理想に執着せず、顔を上げて現実を歩む。だから、道は開けた。
ある“出会い”…右肩が劇的に回復
運命――心の底から荘司がそう思えたのは、まだ右肩痛に悩まされていた2年秋だった。
「すごくいいから、1回診てもらえよ」