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「鉄アレイを指に挟んで…」「山にこもり座禅」村田兆治の壮絶な野球人生…“拷問のような特訓”から現役最後の1年を迎えるまで 

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中溝康隆

中溝康隆Yasutaka Nakamizo

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photograph byBUNGEISHUNJU

posted2022/11/24 11:01

「鉄アレイを指に挟んで…」「山にこもり座禅」村田兆治の壮絶な野球人生…“拷問のような特訓”から現役最後の1年を迎えるまで<Number Web> photograph by BUNGEISHUNJU

通算215勝を挙げた豪腕投手・村田兆治。伝家の宝刀・フォークボール習得の裏にあった“壮絶な努力”とは

 文字通り血の滲むような努力を重ね、75年には防御率2.20で最優秀防御率と13セーブで最多セーブに輝き、76年は21勝を挙げ202奪三振、防御率1.82で2年連続の最優秀防御率を獲得。150キロの剛速球と落差30センチのフォークボールに磨きをかけ、プロ14年目の81年には19勝で自身初の最多勝に加え、4度目の最多奪三振と名実ともにロッテのエースとなる。同世代の山田久志(阪急)や東尾修(西武)といったパ・リーグの大エースたちを強烈にライバル視して、彼らと試合前に顔を合わせた時に次回の登板予定を聞き出し、自軍の監督やコーチに直接対決できるようローテーションを組んでもらったという。ホームランか三振か、門田博光(南海)との火の出るような力と力の真っ向勝負は、あの頃のパ・リーグの象徴だった。

「オレは本物」。マサカリ兆治の自負と柔軟性

 だが、“人気のセ、実力のパ”と言われた時代、村田も自著『還暦力』(朝日新聞出版)の中で当時の球界事情をこう書く。「ジャイアンツが超一流企業で、阪神タイガースなど他の人気球団が一流企業。私が入団した当時の東京オリオンズなどは、中小企業、いやもっと言うと下請け企業のような感じだった」と。空席の目立つ客席に寂しさがないと言ったら嘘になる。しかし、目の前の仕事を観客が少ないからと言って手を抜くようなことは絶対したくなかった。有名とか有名でないとかではない。本物か本物でないか。マサカリ兆治には、オレは本物だという強烈な自負があった。

 まるでサムライのような真っ直ぐさが誤解を生み、時に球団とぶつかってトレード騒動に発展することもあったが、一方で球界の慣習に縛られず新しいものを積極的に試す柔軟さも持ち合わせていた。ちなみに今では当たり前の肘のアイシング用品も、ベンチで氷の浮いたバケツに肘を突っ込んでいる村田の姿を見たスポーツメーカーの社員が、保冷剤を入れたパックを作ってくれたのが投手用の第1号である。

右肘の故障で「山にこもって座禅」

 そんな不屈の男も32歳の春に野球生命を脅かす大きな故障に見舞われる。82年5月17日に右肘を痛めてしまい、当初は原因が分からず、日本中の病院を訪ね、山にこもり座禅を組みながら滝に打たれたこともあった。ようやく靱帯損傷と判明すると、翌83年8月22日にロサンゼルスのF・ジョーブ博士のもとで靱帯再建手術。当時の常識では利き腕にメスを入れたら終わりと囁かれる中、村田は不屈の精神でリハビリを続け、見事カムバックを果たす。投げられない欲求不満を異常な量のランニングとダッシュにぶつけ、外野フェンス沿いを「我慢、忍耐、辛抱、根気」と呟きながら走り、驚いて振り返る若手投手には「ただ今、我慢中だ!」と大声でシャウトする。

【次ページ】 39歳シーズンも大活躍。しかし…

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