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アントニオ猪木の悲願“北朝鮮38万人興行”とは何だったのか? 現地を知る者たちの証言「あぁ、これが引退試合なのかな……」
text by
長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph byEssei Hara
posted2022/10/06 17:01
故金日成主席の肖像画も背景に見えるフレアーとの対戦中の1枚。写真については後編でカメラマンの原悦生氏がその詳細を明かしている
猪木自身、自らの死に場所を探していたのではなかったか。
「あぁ、これが引退試合なのかな……」
リングサイドでカメラを構えながら、原悦生は考えていた。16歳のときに初めてアントニオ猪木を撮影してから三十数年が経過していた。猪木を追ってソ連やキューバ、イラクにも同行した。これまでと同様に「猪木と一緒でなければ行けない国」である北朝鮮での試合が決まったときにも、迷いなく「行こう」と即断した。
師匠である力道山の祖国でプロレスイベントを開催することは「プロレスラー猪木」にとっての悲願であった。同時に、遅々として進まぬ拉致問題解決の糸口として、この地で試合をすることは「政治家猪木」としての宿願でもあった。そうした猪木の思いを熟知していたからこそ、原は「北の国での猪木」を記録し続けていたのだった。
「儲かる、儲からないは別として、猪木さんはガラガラの会場が大嫌いで、《超満員》が大好きなんです。何しろ19万人という、猪木さんに相応しい大舞台。このとき僕は、“これが猪木の引退試合なのだろう”と感じました。それだけのスケールと雰囲気を兼ね備えていましたから」
このとき、猪木はすでにセミリタイア状態にあった。前年の1994年5月1日からは「INOKI FINAL COUNT DOWN」が始まっていた。全部で何試合行われるかの発表もないまま、この時点ですでに4大会が行われていた。いつ、どこで猪木が終焉を迎えるのかはファンも関係者もわからなかった。当の猪木自身も自らの死に場所を探していたのではなかっただろうか。