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[証言構成ピョンヤン1995]猪木がガウンを脱いだ日

2022/07/16
原悦生氏が“狙い通り”に撮影した、故金日成主席の肖像画と猪木の一枚
日本プロレス史上もっとも多くの観衆を集め、もっとも特異な環境で行われた一戦。力道山、拉致問題、引退……。幾重にも意図と思惑が絡んだ「平和の祭典」とは何だったのか? その稀有な時と場所を体感した関係者に訊いた、猪木最大の興行の実相――。

 猪木が北朝鮮で試合をする――。一報を聞いて、「面白そうだな」と訪朝を即決したのは直木賞作家の村松友視だった。1980年に『私、プロレスの味方です』を発表して以来、「意識的に距離をとりつつ」猪木との交流は続いていた。

「猪木さんたちの試合を異郷の観客がどう見るのか、どう感じるのかということに興味がありました。力道山の故郷で、その遺伝子を継ぐアントニオ猪木とアメリカの象徴であるリック・フレアーが戦う。これはアメリカを媒介として猪木さんと北朝鮮を近づける方法であり、プロレス的な対立軸でもある。プロレスの構造って、子どもでもわかるようなヒールとベビーフェースの組み合わせなんです。どっちがいい方か、 悪い方かわからないと、子どもは映画の筋を追えない。その原点にあるようなマッチメイクでありながら、人間の本質とも関わってくるような設定で、猪木さんの対戦相手はリック・フレアー以外にはあり得なかったと思いますね」

 1995年4月28、29日――。

 新日本プロレス50年の歴史において最大となる38万人という大観衆を集めた伝説のイベントが行われた。正式名称は「平和のための平壌国際体育・文化祝典」、通称「平和の祭典」と呼ばれ、戦いの舞台は北朝鮮のメーデースタジアムだった。

 当時も、そして現在でも国交のない国で行われた大会のメインイベンターを務めたのは当時現職の参議院議員であり、52歳となっていたアントニオ猪木。対するのはNWAを象徴する世界チャンピオンであり、当時はWCWに所属していたリック・フレアーだった。立会人を務めるのは、かつて猪木と戦い、その後も友情を育むことになるモハメド・アリ。何から何まで役者がそろっていた。大会初日となる4月28日、2日目の29日、それぞれ19万人の観客が集まり、計38万人がその戦いを熱心に見守った。前年7月8日、建国の祖である金日成主席が亡くなり、息子である金正日書記が喪に服していた頃のことだった。

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photograph by Essei Hara

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