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「あの年のドラ1は甲子園出場者が…」「日本一になったときには優越感を」“野茂ドラフト”同期が語る仲間意識と反骨精神
text by
阿部珠樹Tamaki Abe
photograph byJIJI PRESS
posted2022/10/21 06:01
1989年ドラフト1位の12人。彼らはどんな思いを抱えてプロの世界へと飛び込んだのか
173cmと小柄だが、左腕から多彩な変化球を駆使して、関西学生リーグでは3年春から近大のリーグ優勝に貢献し、4年になってからは80回3分の1連続無失点とほとんど点を取られていない。
「ボクは体がないのでプロはきついと思っていました。でも、当時の監督さんは金属バットの社会人のほうがおまえにはきつい、プロに行けというんです。そういうものかなって思い、プロを考えるようになった。スカウトの方も来るようになったし」
一番熱心に誘ってくれた日本ハムは、酒井がひそかに好感を持っていた球団だった。
「日本ハムとヤクルトが好きだったんですよ。どちらも若い選手が多くて新鮮なイメージがあった。それに、投手陣の層もそれはど厚くなくて、チャンスがもらえそうだったし」
そんなに高い評価をしてくれるのかという感激ですね
外れとはいえ、その意中の球団が1位で指名してくれた。
「それはうれしかったですよ。そんなに高い評価をしてくれるのかという感激ですね」
ドラフトは若い選手がはじめて受ける客観的な評価である。スカウトや周辺はアマに対してシビアな直言はしない。ドラフトではじめて専門家のきびしい評価が示される。それが自分の想像を超える高さだったとしたら、その喜びは格別のものだろう。
1990年のシーズンが開幕すると、ドラフト1位の投手たちは一斉にゲートを飛び出した。野茂は4月の数試合こそ勝ちあぐねたが29日のオリックス戦で17三振を奪って初勝利をあげると、毎試合のようにニケタ三振を奪い、勝ち星を積み重ねていった。
しかし、野茂が「単騎先頭」だったわけではない。
セパともに、ルーキー投手が席巻していた
パ・リーグでは潮崎も開幕からリリーフの一角に食い込み、野茂よりも先に自星を挙げていた。
潮崎から抑えの鹿取義隆につなぐリレーが西武の必勝パターンになる。日本ハムの酒井も野茂の初勝利の翌日に1勝目を挙げると、たちまち3連勝して、先発陣の一員に加わった。ロッテの小宮山も最初はバックの援護に恵まれずに苦労したが、出番を与えられる中で、持ち前の投球術に磨きをかけ、9月には月問MVPに選ばれる活躍を見せた。
セ・リーグのほうも負けてはいなかった。