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ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
100人のガードマン、猟銃も忍ばせ…アントニオ猪木vs“熊殺し”ウィリー「史上最も殺気に満ちた格闘技戦」の物騒で不透明な結末
posted2022/10/03 17:02
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph by
Sankei Shinbun
10月1日に逝去した名レスラー、アントニオ猪木。1970年代、新日本プロレスと空手の極真会館の“二大勢力”によって牽引された格闘技ブームは、猪木出場の“ある試合”によってフィナーレを迎えた。『闘魂と王道 昭和プロレスの16年戦争』(ワニブックス刊)より、「1980 昭和格闘技ブームのクライマックス 殺気に満ちた猪木vs熊殺しウィリー」の章を抜粋して掲載する。“最強”同士が激突した一戦とはなんだったのか――。物語は新間寿の証言から始まる。《全2回の後編/前編からつづく》
「ウィリーとの試合の話は、梶原先生から持ち込まれたものなんですよ。当時、梶原先生は『四角いジャングル』という現実と交差する劇画を連載していたので、猪木とウィリーが闘うシーンを頭に描いていたのでしょう。またウィリーは、“熊殺し”として抜群の知名度があったので、こちらにとっても魅力がある相手だった。だから、猪木vsウィリーというのは、私と梶原先生、それから梶原先生側のプロモーターであった新格闘術の黒崎健時先生の3人で進めたものだったんです」
こうして動き出した猪木vsウィリーだったが、意外なところで横やりが入る。極真の大山倍達館長が「他流試合は許さない。強行すればウィリーは破門とする」と表明したのだ。この時の背景を新間はこう語る。
「大山先生はプロ、梶原先生もプロ、黒崎先生もプロだったけど、極真の道場生たちは全員アマじゃない? それで猪木vsウィリーは、新日プロと極真の威信を懸けた闘いだったから、『ウィリーが負けたらどうするんですか? 猪木や新日本プロレスの連中を我々がまとめてやっちゃいましょうか?』と、大山先生に諌言しにいった弟子が何人もいたらしいんだよ。それで大山先生は一部の弟子が、何か突拍子もないことをして、猪木や新日本の人間に危害を加えるんじゃないかということを危惧していた。だから、極真と新日プロの戦争にならないようにするために、ウィリーを破門にしたんですよ」