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ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER
アントニオ猪木vs“熊殺し”ウィリーの異種格闘技戦は“大乱闘寸前”の決闘に…舞台裏では「反則負けでいいから、腕でもヘシ折ってやれ!」
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph byAFLO
posted2022/10/03 17:01
80年2月27日、蔵前国技館で行われたアントニオ猪木vsウィリー・ウィリアムス
ウィリーといえば、映画『地上最強のカラテPART2』で巨大熊(グリズリー)と闘い、“熊殺し”と恐れられた猛者。いまでこそウィリーと熊が闘う映像は、さすがに胡散臭さを感じてしまうことは否定できないが、当時は凄まじいインパクトがあり、身長2メートルの鍛え抜かれた褐色の肉体は、極真空手家の中でも抜きん出た怪物性を醸し出していた。
そんなウィリーと猪木が対戦する一戦は、まさに“格闘技世界一決定戦”であり、それは単に個人の闘いを超え、当時、全国に2000万人のファンを抱えると言われた新日本プロレスと、最盛期は世界に500万人の門下生を抱えたとされる極真会館の威信を懸けた決闘の様相を呈するものとなった。
極真世界大会で生まれた新日本との因縁
梶原一騎がウィリー戦の話を持ち込む
「猪木の長いキャリアの中でも、あれほど殺伐とした異様な雰囲気の中行われた試合はないね」
そう証言するのは、当時の新日本プロレス幹部であり、猪木の片腕としてこの一戦に深く関わった新間寿だ。
「とにかく、あの時の極真の連中のヒートアップぶりは常識を超えていた。門下生が1000人くらい会場に来て、いつレスラーやプロレスファンと大乱闘が起こってもおかしくなかった」
新日本と極真の因縁のそもそもの発端は、猪木vsウィリー戦の5年前にさかのぼる。75年に極真は『第1回オープントーナメント全世界空手道選手権大会』の開催を発表。その際、『少年マガジン』誌上に「相撲、柔道、ボクシング、プロレス……どんな格闘技の挑戦も受ける」という宣言を掲載すると、そこに新日本プロレスが噛み付いたのだ。