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アントニオ猪木vs“熊殺し”ウィリーの異種格闘技戦は“大乱闘寸前”の決闘に…舞台裏では「反則負けでいいから、腕でもヘシ折ってやれ!」 

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堀江ガンツ

堀江ガンツGantz Horie

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posted2022/10/03 17:01

アントニオ猪木vs“熊殺し”ウィリーの異種格闘技戦は“大乱闘寸前”の決闘に…舞台裏では「反則負けでいいから、腕でもヘシ折ってやれ!」<Number Web> photograph by AFLO

80年2月27日、蔵前国技館で行われたアントニオ猪木vsウィリー・ウィリアムス

「全員反則負けでいいから、腕でもヘシ折ってやれ!」

「当時、新日本は『プロレスこそ最強』を名乗っていたからね。『プロレス』という名前を出された以上、無視することはできない。ところが、挑戦を求めておきながら、その大会は掴みが禁止された『極真会空手ルール』だと言う。こっちは組んでなんぼのレスラーだからね、『冗談じゃない! 全員反則負けでいいから、腕でもヘシ折ってやれ!』っていうことで、猪木、坂口征二以下、所属選手13人分の大会出場申込書を書いて、私が池袋の極真本部道場に持っていったんですよ」

 これに慌てたのが極真側だ。せっかくの第1回世界大会が、プロレスラーにめちゃくちゃにされてはたまらないと、後日、大山館長が直々に新間と会談を持ち、新日本と極真は和解。しかし、トップ同士は和解しても、一度は極真にケンカを売ってきた新日本に対し、極真門下生の間で敵愾心が生まれることとなった。そして、その火種は消えることなく残り、2年後にまた燃え上がることになる。

 78年4月4日、アメリカで猪木が全米プロ空手協会王者ザ・ランバージャック・ジョニー・リーを下すと、極真北米支部長の大山茂が、弟子のウィリー・ウィリアムスを引き連れ、「プロ空手ごときに勝っただけで、格闘技世界一を名乗ることは許さん」と、猪木に挑戦を表明したのだ。

 ついに極真から「打倒・猪木」に立ち上がったかたちだが、じつはこの時の大山茂とウィリーの行動には黒幕がいた。そう、梶原一騎その人だ。《つづく》

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#2に続く
100人のガードマン、猟銃も忍ばせ…アントニオ猪木vs“熊殺し”ウィリー「史上最も殺気に満ちた格闘技戦」の物騒で不透明な結末

記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。こちらよりぜひご覧ください。

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