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酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
「“コーチに”と言われるうちが花やな」33歳で引退…ゴールデングラブ2回、“阪急最後の名手”弓岡敬二郎64歳は今何してる?
posted2022/09/05 11:00
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph by
Kou Hiroo
筆者は子供のころから南海ホークスファンだった。南海ファンにとって、昭和後期の阪急ブレーブスは憎々しいまでに強かった。
西本幸雄、上田利治と監督が代わっても鉄壁の体制は変わらなかったし、投手は米田哲也から山田久志、山口高志、打者は長池徳士から加藤秀司、福本豊から簑田浩二と、優秀な選手があとからあとから出てきた。守りの面でも、名ショートの名をほしいままにした大橋穣のあとにはすぐ弓岡敬二郎が出てきた。切れ目なく優等生選手を輩出してきた印象が強い。
「高校屈指の名ショート」が社会人に進んだワケ
阪急ブレーブス最後の名手の1人と言ってもよい弓岡敬二郎は今年、独立リーグ愛媛マンダリンパイレーツの監督に6年ぶりに返り咲いた。炎天下の松山市にある愛媛球団の練習施設のクラブハウスで、弓岡に話を聞いた。
「小学校の時に地域のソフトボールから始めて、軟式野球に進みました。中学は部活の軟式野球でしたが、全国大会で優勝しました。当時からショートで1番を打っていました」
地元姫路の強豪、東洋大姫路に入学した。
「肩もそこそこいいということで、中学時代はピッチャーもしました。高校でも1年生はピッチャーも兼ねていて、たしか予選で1勝しています。1年夏の甲子園には1番ショートで出場し、3回戦まで進みました。2年生は地方大会で敗退しましたが、3年の春も甲子園に出場して準決勝まで進みました」
この時点で弓岡は「高校屈指の名ショート」という評判が立ち、プロ野球のスカウトの注目を集める。
「3年生の11月のドラフト会議(1976年)で、クラウンライターさんから3位で指名されたんです。これは困ったことになったなあと思いました。というのも、親父が病気で入院してしまったので大学には行けない。野球を続けるなら社会人に、と2年の時に新日鐵広畑に入社することが決まっていたんです。東洋大姫路の監督が決めてくれたのですが、結局、ドラフト指名はお断りして、社会人野球に進みました」
レギュラーが固まっている阪急だったが
新日鐵広畑では、都市対抗に出場するなど活躍し、1980年のドラフト3位で阪急ブレーブスに入団する。
「社会人にはちょうど4年間いたので、大学で野球をした同級生と同じタイミングでプロ入りしました。原辰徳(東海大)や大石大二郎(亜細亜大)らがそうですね」
1980年の阪急は、外野は福本、簑田、バーニー・ウィリアムス、内野は一塁が加藤、二塁がボビー・マルカーノ、三塁が島谷金二、遊撃が大橋穣、捕手が中沢伸二、びしっとレギュラーが決まっていた。