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熱狂とカオス!魅惑の南米直送便BACK NUMBER
「有能か以前に人間として…」「軍事政権と取引、スポンサーからの“賄賂”で私服を肥やす」ブラジルサッカー“元祖・極悪会長”のやり口
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph byBuda Mendes/Getty Images
posted2022/08/24 11:00
2011年のアベランジェ氏。良くも悪くも“スポーツ協会の会長”という存在を象徴するような存在だ
この快挙でアベランジェの立場はさらに強固となり、政府が軍事独裁ならCBFもアベランジェの独裁。会長として贅沢な待遇を享受するだけでなく、政府からCBDへ流れた資金を盛大に着服して私腹を肥やした。
その一方で、彼が会長を務めた1958年から1975年までの17年間にセレソンは5度のW杯に参加して実に3度制覇。“W杯優勝率”6割という驚くべき結果を残した。
FIFA会長選に出馬、勝つためには手段を選ばず
アベランジェはこれだけでは満足しなかった。政府の全面的な援助を得て、1971年、3年後のFIFA会長選挙への立候補を表明したのである。
1904年の創立以来、FIFAの会長は常にヨーロッパ人だった。フットボールの母国イングランド出身で現職のサー・スタンリー・ラウスが再選を目指しており、圧倒的に有利とみられていた。
しかし、アベランジェは用意周到にして、勝つためには手段を選ばない男だった。
南米10カ国の理事からの投票は堅いが、欧米諸国とオセアニアの票は期待できない。となれば、命運を分けるのはアフリカ、中東を含むアジア、共産圏からの票となる。
アベランジェが考えた戦略は、至宝ペレ(当時サントス)と世界王者セレソンを最大限に利用することだった。セレソンとサントスをこれらの国へ通常の半分以下のギャラで遠征させ、地元のサッカー協会やフットボール関係者に多額の利益をプレゼントした。そして、将来のW杯出場枠の増加を約束し、FIFAの理事たちには賄賂や宝石をちりばめた高級時計などを握らせて陥落させた。
アベランジェは、1974年のFIFA会長選挙の決選投票でラウスを破って当選。世界中のフットボール関係者に衝撃を与えた。
実務面では、育成年代の強化と普及を目指して1977年にU-20W杯を創設。1982年W杯から出場国をそれまでの16から24へ増やし、アフリカ、アジア・オセアニア、中米からの出場枠を倍増させて会長選挙の際の公約を果たした。さらに、1985年にU-17W杯を、1991年に女子W杯を創設してフットボールの裾野を広げた。
スポンサーや出入り業者からリベートを
その一方で、会長になるために費やした巨額の資金を回収し、なおかつ“利益”を上げるため、各種スポンサーや出入り業者からリベートを取り始めた。
とりわけ、1982年にアディダスの創立者の息子ホルスト・ダスラーと電通が共同で設立したISLにW杯におけるマーケティングの権利を与え、その見返りとして巨額のリベートを取り立てた。W杯の放映権を与えたテレビ局からもリベートを取って私腹を肥やした。