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熱狂とカオス!魅惑の南米直送便BACK NUMBER
「有能か以前に人間として…」「軍事政権と取引、スポンサーからの“賄賂”で私服を肥やす」ブラジルサッカー“元祖・極悪会長”のやり口
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph byBuda Mendes/Getty Images
posted2022/08/24 11:00
2011年のアベランジェ氏。良くも悪くも“スポーツ協会の会長”という存在を象徴するような存在だ
父親がベルギー出身の武器商人で、1916年にリオで生まれた。大柄でスポーツ好きの少年で、15歳までフットボールをしていたが、父親の勧めで水泳に転向する。1936年のベルリン五輪に水泳の400mと1500mの自由形の選手として出場。大学で法律を学び、大手バス会社で弁護士として勤務した。
1952年のヘルシンキ五輪にも水球の選手として出場。以後、スポーツ政治の世界に入り、1958年初め、CBDの会長に選ばれた。
1958年W杯優勝によって盤石の体制を築いた
最初の重大な任務は、この年6月にスウェーデンで開催されるW杯で好成績を収めることだった。
彼はフットボールの専門家ではなかったが、前年のW杯南米予選におけるセレソンの試合内容には満足していなかった。予選を勝ち抜いた監督を更迭し、戦術家で厳格なヴィセンテ・フェオーラを招聘。スーパーバイザー、フィジカルコーチ、ドクター、スポーツ心理学者、コックに歯医者まで加えたスタッフを編成した。当時としては画期的なサポート体制だった。
また、17歳の天才少年ペレ、幼少時に患ったポリオの後遺症で両足が湾曲していて、知的障害もあると言われていた右ウイング、マネ・ガリンシャの招集に賛同し、大会前に現地で合宿を張る(これも当時は異例だった)など周到な準備を行なった。
そして、セレソンはペレ、ガリンシャらの活躍で悲願の初優勝を達成。国中が大騒ぎになった。
輝かしい成果を挙げたことで、アベランジェはCBD会長としての盤石の体制を築いた。1962年の会長選挙で圧勝し、的確な監督選びと万全のサポート体制で、この年のW杯で連覇を達成した。
翌年には、ブラジル五輪委員会、IOCの委員にも選任された。
フットボールを国威発揚と政権維持に役立てようと
1964年、軍部がクーデターを起こし、軍事独裁政権が発足する。その2年後のW杯で、セレソンはグループステージで敗退。国民を失望させた。
政府は、フットボールを国威発揚と政権維持に役立てようと考えた。通算3度の優勝を成し遂げた国はジュール・リメ杯を永久保持できることになっており、国際的にも国内的にも大変な名誉となることから、アベランジェに1970年のW杯制覇を命じたのである。
これに対してアベランジェは「政府がCBDへ相当額の公的資金を投入すること」を条件に承諾した。
軍事政権とCBDの“取引”が成立し、潤沢な強化費用を手にしたCBDは周到な準備を積み重ねてセレソンを強化した。そして、1970年のW杯で天才ペレを擁するセレソンが美しい攻撃的スタイルで優勝。世界中のファンを魅了するとともに、ブラジルを世界のフットボール大国へ押し上げた。