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最強軍団・大阪桐蔭にもこんな時代が…02年夏の“初戦敗退”から西谷野球は何が変わったのか?「先生は悔しかったでしょうね」
posted2022/08/10 06:01

1991年夏の甲子園で沖縄水産を破り、初出場初優勝を成し遂げた大阪桐蔭。しかしここから足踏みが続き、2002年夏まで出場が遠のいた
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日比野恭三Kyozo Hibino
photograph by
KYODO
夏の1勝に10年以上を費やした智弁和歌山を颯爽と追い抜いたのが大阪桐蔭だ。創部4年目の91年、春に続いて夏の初出場を決めると、5連勝で日本一に駆け上がる。
足踏みが続くのはここからだった。大阪の壁は厚く、10年連続で行く手を阻まれた。その中でも、長澤和雄からコーチだった西谷浩一に監督が代わって3年目、01年夏の府大会は最も聖地に近づいた年だった。
プロの舞台でホームラン王に輝くこととなる中村剛也が4番に座るチームは、2回戦で59-0(5回コールド)のスコアを残すなど歴代最強クラスの打力をもって決勝まで勝ち上がったが、5-6で上宮太子に敗戦。当時1年生だった三島輝史が語る。
「大会の後、新チームが動き出しても、西谷先生が監督室から出てこないんです。何かの用事でぼくが入ると、すごく元気がなかった。責任感なのか、寂しさなのか……。それぐらい圧倒的なチームでしたから」
肩を落とす西谷に追い打ちをかけるように部内の暴力事案が明るみに出て、監督の座は“相談役”に退いていた長澤に返される。
02年夏「甲子園に行けると思ってなかった」
チームの中心は走攻守に秀でた西岡剛だ。野手では西岡を差し置いて遊撃手を任されていた岩下知永、投手は松下真誠と1学年下の三島が軸となったが、前年に比べて見劣りするのは否めなかった。長澤が言う。
「ピッチャーも攻撃陣も手薄でしたよね。甲子園に行けるとは思ってなかったです。でも、運命いうんかなあ……」
02年夏、大阪桐蔭はたびたび苦戦を強いられながら府大会を勝ち抜いていくのだ。
「準決勝で上宮太子に8回まで負けとって、そこで普段打たないやつがホームラン打ったりね。初芝との決勝もワンチャンスで5点取って、それで勝ったようなもんです。(甲子園を決めて)まず思ったんは、このチームでよく大阪を戦ってきたなあ、と」
常に先の見えない戦いだったことを、三島の証言が裏づける。
「ぼくは背番号1をつけてましたけど、たしか12イニング投げて8失点。そんなエースで普通は甲子園行けないですよね。一戦必勝でいっぱいいっぱい。甲子園も『どこまで行けるかわからない。行けるところまで行こう』そんな感じだったと思います」