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「おう!また負けに来たんか」名将・高嶋仁を“勝負師”に変えた甲子園のヤジ…智弁和歌山が“初めて負けた夏”から積み重ねてきたこと
posted2022/08/10 06:00
text by
日比野恭三Kyozo Hibino
photograph by
Tadashi Shirasawa
高嶋仁が智弁和歌山野球部の監督に就任したのは1980年、創部2年目のことだ。
「大学を出てすぐ奈良の智弁学園でコーチをやって。3年契約やったんです。その3年目に当時の監督が理事長とケンカして、お前が監督せいとなった。それ引き受けたばっかりに、(奈良での10年を含めて)もう48年ですよ。契約した理事長は死んでもうておらへんじゃないですか」
炎天下のグラウンド脇、屋根はあっても熱気のこもるベンチに座り、高嶋は笑う。
齢70を超えたいま表情は柔和になったが、和歌山に来た30代半ばのころは鬼だった。
校内から部員をかき集め、とことん負荷をかけた。池田高校の蔦文也監督に頼んで練習試合を組み、「数えきれんぐらいの」点を取られて、選手たちに意識改革を促した。屈辱を糧に伸びたチームは1年目の夏の大会でシード校相手に1勝を挙げる。まだ校歌もなく、やむを得ず智弁学園の校歌を流した。いまと違い紫を基調としたユニフォームに身を包んだ部員たちは、聞き慣れぬメロディにただ耳を傾ける。部はそんなところからスタートした。