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「おれ、やっぱりキヨハラが好きなんだよ」編集長のひと言から始まった清原和博を巡る旅「罪を犯した。でも、今までやってきたことがなしになるのは…」
text by
鈴木忠平Tadahira Suzuki
photograph byKatsuro Okazawa/AFLO
posted2022/07/30 17:00
1985年夏の甲子園で宇部商をサヨナラで破り、歓喜するPL学園・清原和博
つまり村田は、やり残した夢を追って清原と同じ世界の扉に手をかけたが、自らその夢に幕を引いたのだという。
「自分の力を確認してみたかったのかもしれません。おれは負けていないぞと。でも同時にプロの世界は清原のような男がいく世界だという実感もあった。きっと自分の中で踏ん切りをつけたかったんです」
ホームランの数だけ、清原の物語を耳にした
敗れてなお残った執着と、諦めの狭間で揺れ動いた心境を村田はこう語った。私はそんなひとりの球児の人生に引き込まれていた。喫茶店のコーヒーは2杯、3杯と重なり、気づけば長かった夏の陽は落ちて最終電車の時刻が迫っていた。おかげでホームを走る羽目になった。
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村田に限ったことではなかった。私は清原が甲子園で放ったホームランの数だけ、そうした物語を耳にしていた。
高知でも、山口の宇部でも、清原というバッターとの一瞬の交錯を引きずって生きている人間とその人生を見た。ひと夏のたった一球から、数々の記憶がよみがえっていく。その鮮やかさと織りなされる機微、そして清原という人物の不思議な力に高揚していた。シートに身を落ち着けても火照りが引かなかったのはそのためでもあった。
車輛には数えるほどしか乗客がいなかった。私は背負っていたバックパックを隣の空いている席に放り出した。荷はシートに軽く弾むようにして微かな音をたてた。中に入っているのはノートとペンだけだった。ほとんど空っぽのバックパックはこれから何かが始まる兆しのようで、私の心を浮き立たせた。その余白をどう埋めていくか、他の誰でもなく 自分で決める自由を私は手にしていた。
会社に辞表を出したのはこの年の初めだった。大学を出てから16年勤めたスポーツ新聞社を出ようと決めたのは、ひとことで言えば書くべきことがもう見つからなかったからだった。
誰が、いつ、どこで、何をしたか。そうした一次情報をいかに先駆けて書くかが何をおいてもまず記者に求められることだった。そこに、なぜ、どのように、という物語の要素が入り込む余地はほとんどなかった。私はそうした仕事の反復に倦んでいた。もっと劇的な人間の生き様や内面のドラマを書きたいと考えていた。
君は記者か? ニュースをものにできるのは…
だが、正直に言えば、理由はもう一つあった。自分の肚を覗き込んでみると奥底には沈殿した劣等感があった。
まだ記者になりたてのころ、社内で知らぬ者のいない人物にこう言われたことがある。『君は記者か? もし君が記者なら目の前の人間や事実を疑わなければならない。疑わない奴にニュースは獲れない。ニュースをものにできるのは疑り深い奴だけなんだ』
それが一次情報を他のどこよりも速く報じるための記者の条件だとすれば、私には決定的に欠けていた。いわゆるスクープ合戦でことごとく敗れた愚鈍が何よりの証明だった。