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アントニオ猪木79歳が「イラクの戦友」と再会…湾岸戦争直前、あの“人質解放”の知られざるウラ側「猪木さん、残ってください」
text by
原悦生Essei Hara
photograph byEssei Hara
posted2022/07/20 17:00
1990年、湾岸戦争直前のイラクに乗り込んだアントニオ猪木。共に人質解放に尽力した戦友・野崎和夫さんとの再会に笑顔を見せた
湾岸危機の真っ只中で「平和の祭典」を開催した猪木
サダム・フセイン大統領の息子のウダイ・フセインはスポーツ大臣をやっていて、イラク・オリンピック委員会の会長もしていたが、野崎さんはそこの副大臣とも親しくしていた。
筆者の記憶では、その副大臣は温厚な人柄の巨漢で、猪木にも優しかった。
1990年のイラクでの人質解放は、猪木の中でも特別な出来事だった。9月、湾岸危機から湾岸戦争へと拡大してしまうその歴史的事象の真っ只中に、スポーツ平和党の参院議員として単身で飛び込んだ。
イラクのクウェート侵攻で始まった湾岸危機では、クウェートで働いていた邦人の商社マンらが「ゲスト」という名の人質になってイラクに連れて来られていた。「人間の盾」とも呼ばれた。
一度帰国した猪木は、成田空港での記者会見でバグダッドでの「平和の祭典」を実現すると宣言した。10月に再びバグダッドに入り、イベント開催に向けて奔走する。
野崎さんはそんな仰天の行動をとった猪木に、自身が築いてきたルートを駆使して協力した。当時の彼はバリバリの商社マンだったから、眼光が鋭かった。その目でにらまれたら、誰でもすくんでしまうのではないか、と思うくらいの迫力があった。
「私もかごの中の鳥でしたが、自由に動くことができました。当時、猪木さんはバグダッドの街を早朝に走っていましたが、大きな野犬がいて危ないんですよ。もし嚙まれたら、破傷風になりますから」
野崎さんは自身が散歩に出るときは木刀を持って歩いた。黒いヤッケに木刀といういで立ちのため、警察から呼び止められたことがあったが、それが幾度か繰り返されると、相手も慣れて「また来たか」という感じになったという。
イベントの開催は土壇場で実現にこぎつけた。まるで「開け、ゴマ」のおまじないのようだった。
日本政府からはチャーター便の手配などに圧力がかかったが、猪木はそんなことには屈しなかった。いつものように「人の心というものがわからないのか。そんなのどうってことねえよ」と言って、一蹴した。