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アントニオ猪木79歳が「イラクの戦友」と再会…湾岸戦争直前、あの“人質解放”の知られざるウラ側「猪木さん、残ってください」
posted2022/07/20 17:00
text by
原悦生Essei Hara
photograph by
Essei Hara
アントニオ猪木は懐かしそうに微笑んだ。目の前には約30年前、1990年12月の“人質解放”の際に、猪木のイラクでの活動を熱心に後押ししてくれた野崎和夫さんがいた。
野崎さんは当時、伊藤忠商事に勤務していたが、イラク政府内に自身で開拓した独自のルートを持っていた。
「イラクには先に三菱などが入っていたので、うちは自分でルートを見つけなければいけなかった。ちょうど内務省に空手を教えている人がいまして、そのツテから私は顔を売ることができたんです。他の商社に負けないように自分のルートを作り始めました」
12月2日と3日にバグダッドで開催された「平和の祭典」を終えた翌朝、猪木がイベント関係者と一緒にトルコ航空のチャーター便に荷物をチェックインした時、野崎さんが現れた。猪木から託されたサダム・フセインあての長い手紙をしかるべきところに届けてから、野崎さんは空港にやってきたのだった。
「猪木さん、残ってください」「わかりました」
その時点で、猪木がそのままチャーター便に乗って日本に帰るかどうかは微妙だった。筆者が前日に「私は残りますけれど、猪木さんはどうするんですか」と尋ねると、猪木は「オレが帰ると言わないと、みんな帰らないだろう」と答えた。人質の家族からは「猪木さん、残ってください」と言われていた。人質家族婦人会の女性たちはみな「夫と一緒に日本に帰る」と言っていた。
さすがの猪木も、「私も、私もとバグダッドに残られても困る」と考えてはいたようだ。筆者は「猪木は帰らないだろうな」と思った。それでも、成り行き次第という部分は残っていた。猪木はCNNなどのインタビューに答えていたが、そこに姿を見せた野崎さんが強い口調で言った。
「猪木さん、残ってください」
野崎さんには“ある感触”があった。待ち望んでいた人質解放は進行していたのだ。
猪木が「わかりました」と言って、うなずいた。野崎さんはチェックインカウンター後方の荷物を運ぶベルトコンベアーに飛び乗ると、中に入っていった。
「空港のイミグレーション内も、私は入ることができるようになっていました。日本の大使がダメだといわれても、野崎はいい、と。みんな知っていますから」
野崎さんは猪木が預けた荷物をいくつか取り出すと、ほっとしたような表情で戻ってきた。