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アントニオ猪木79歳が「イラクの戦友」と再会…湾岸戦争直前、あの“人質解放”の知られざるウラ側「猪木さん、残ってください」 

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原悦生

原悦生Essei Hara

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posted2022/07/20 17:00

アントニオ猪木79歳が「イラクの戦友」と再会…湾岸戦争直前、あの“人質解放”の知られざるウラ側「猪木さん、残ってください」<Number Web> photograph by Essei Hara

1990年、湾岸戦争直前のイラクに乗り込んだアントニオ猪木。共に人質解放に尽力した戦友・野崎和夫さんとの再会に笑顔を見せた

「飛行機が撃墜されるかも…」開戦直前に帰国

「イラクの人たちは、いわゆる“砂漠の民”ではなく、もともと農耕民族なんです。市場に行けばわかりますが、野菜や果物も採れます。チグリス川やユーフラテス川では大きな魚も獲れるんです。イラクはアルコールも飲めます。店にはビールもあります。話せば、わかってくれるんですよ。こちらの話をちゃんと聞いてくれますし、『Yes,but,however』なんて決して言わない。YesはYesなんです」

 野崎さんは解放された人たちが政府特別機で帰国した後も、バグダッドにいた。年が明けて1991年になってもまだ在留していた。だが、もう戦争は止まらないという情報を得て、開戦の数日前にバグダッドを出た。アンマン、それからマレーシアを経由して日本に帰国した。

「飛行機が撃墜されるかもしれないので、ムスリムが乗る航空会社を選んだ」と野崎さんは説明した。

 イラクのクウェート侵攻をチャンスと見たアメリカのジョージ・ブッシュ政権は、化学兵器を持っているからと多国籍軍でイラクを攻めた。だが、戦後の検証では化学兵器はどこからも発見されなかった。

 これは想像でしかないが、「砂漠の嵐作戦」と銘打たれ、多くの犠牲者を生んだ多国籍軍による爆撃は、武器商人の懐を潤わせただけのものだったのではないか。アメリカは隣国を含めた石油の利権が欲しかったのだろう。イラクを悪者にして都合のいい戦争を仕掛けたというのが、今日では多くの識者の見方だ。

 湾岸戦争では生き残ったサダム・フセインだが、2003年、ジョージ・ブッシュの息子であるジョージ・W・ブッシュ政権下の米軍に拘束され、2006年に死刑が執行された。フセイン政権崩壊後のイラクは荒れた。

「あなたがいくら強くても…」猪木に銃を抜いた議員

 野崎さんは商社マンとして、アフリカの多くの国も回っていた。

「行っていないアフリカの国はほとんどありません。トラックを扱っていましたから。身に危険が及びそうな国では、銃を持っていました。タンザニアでは家に強盗が入ってきたら、自分の身は自分で守らなくてはいけない。銃は撃つ練習をしなくては撃てませんよ。弾は上に飛びますから、引き金に指をかけていても、銃口が上に向いている奴は素人でしょう。銃口は下を向いていなければいけないんです。でも、相手が先に構えていたら、決して撃つな、と教えられました。南アフリカのカールトン・センター(ヨハネスブルグにある223mの超高層ビル)に行ったことありますか。もう今じゃ危険で入れませんけどね」

【次ページ】 病床の猪木が野崎さんに贈った「特別なサイン」

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