Sports Graphic Number MoreBACK NUMBER
「卓球より勉強を」「東北大へ進んでほしかったんです」「宿題ちゃんとやってる?」張本智和(19)の父が明かす“天才児の子育て術”
posted2022/06/27 11:00
text by
城島充Mitsuru Jojima
photograph by
Shigeki Yamamoto
中国が卓球の全種目で金メダルを獲得したリオデジャネイロ五輪が閉幕した直後、中国の『捜狐体育』は日本に帰化した張本智和が「打倒中国の一番手」として期待されていることにふれ、「将来、もともとは中国人だった選手が日本を代表して数々の大会に出場し、中国最大のライバルになるだろう」と、皮肉を交えて論評した。
記事は中国の元世界チャンピオンで、後に日本国籍を取得して祖国の宿敵となった小山ちれ(中国名:何智麗)にも言及していたが、卓球史の最年少記録を次々と塗り替えていく“怪物”が日本で生まれた背景に、その小山の存在が関係していたことはあまり知られていない。
「将来はそうした道へ進もうと考えていました」
中国・四川省のプロ卓球選手として活躍した張本の父・宇が来日したのは、1993年だった。彼に声をかけた人物こそ、すでに大阪の池田銀行所属で活動していた小山である。小山が自らに代わって中国のエースとなった鄧亞萍を大熱戦の末に下して優勝した'94年の広島アジア大会で、宇は小山の練習パートナーを務めていた。
「海外でいろんな経験を積んだあと、中国へ帰ってプロチームの指導者になることが、当時の中国選手たちの多くが目指し、歩む道でした。小山さんに招かれて日本に来た私も、将来はそうした道へ進もうと考えていました」と、宇は振り返る。
その後、カタールやイタリアでプレーしたあと、日本で築いた人脈を通じて仙台ジュニアクラブの指導者として'98年に再来日すると、運命の歯車はさらに大きく動き始める。仙台の地を拠点にした半年後、宇は交際していた張凌と籍を入れ、一緒に暮らすようになったのだ。張凌は中国代表として'95年の世界選手権天津大会に出場したほどの名選手で、引退後はマレーシアの女子代表監督を務めていた。
生まれた直後から、智和は妻に抱かれて……
卓球界で名を知られた新婚夫婦には、母国からのオファーも届いた。日本語がまだ流暢ではなかった2人は日常生活にも苦労が絶えなかったが、中国には帰らず、日本での生活を選択する。日本の子供たちに卓球を教えるのが楽しかったのと、2003年6月27日、長男の智和が生まれたからだ。4050gの大きな男の子だった。
「生まれた直後から、智和は妻に抱かれて仙台ジュニアクラブの練習場に来ていました。卓球のリズム、音、卓球場の雰囲気を小さな体で吸収していたと思います。よちよち歩けるようになると、球拾いをしたりしてピンポン球にふれる機会が増えていきました。2歳になる前には、私や妻とラリーをしていた記憶があります」
だが、その子育ては、決して卓球ありきではなかった。