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フィギュアスケートPRESSBACK NUMBER
7歳上の浅田真央が「昌磨君はフィギュアに来なよ」宇野昌磨、浅田、安藤美姫…なぜ日本の名フィギュアスケーターは愛知から生まれるのか?
text by
近藤正高Masataka Kondo
photograph byAFLO
posted2022/04/08 17:06
ともに愛知県名古屋市生まれの浅田真央と宇野昌磨。宇野がフィギュアスケートを始めたきっかけは浅田の言葉だったという
フィギュアスケートには、スケート靴をはじめ衣装、コーチ、滑走代など何かにつけてお金がかかる。その負担を少しでも軽減するため、山田の生徒たちは、衣装を先輩と後輩で使い回したり、リンクにも早朝と深夜の貸し切り時間だけでなく、昼間の営業時間も一般客に交じって下りる。それもフィギュアの敷居を低くしたいとの山田の考えからだ。山田が伊藤みどりを小学5年のときに引き取り、自分の家族同然に暮らすことにしたのも、彼女の家庭の経済事情を考慮してのことであった。
通年型リンクの数は全国最多タイ
先述のとおり、山田は伊藤のあとも、有力選手を世に送り出していった。浅田真央は伊藤を目標とし、大先輩の衣装で大会に出場したこともある。その浅田を村上佳菜子や宇野昌磨が追いかけた。
宇野が大須のリンクに通うようになったきっかけは、5歳のとき、練習中だった7歳上の浅田に遊んでもらったことだった。リンクには、フィギュアのほかスピードスケートとアイスホッケーのクラブもあったが、彼は浅田から「昌磨君はフィギュアに来なよ」と誘われてフィギュアに決めたという。
大須のリンクが開場したのは1953年。名古屋の中心部にあるだけに、昔からにぎわってきた。ただ、伊藤みどりがスケートを始めた頃は、お世辞にも設備は十分ではなかった。客が四六時中滑っているのでいつも氷上はガタガタだったが、それを滑らかに保つ機械もなかった。そのため伊藤は、少しでも滑らかなエリアを見つけ、ほかの人よりも早く陣取るため、自然と動作が機敏になっていったという。もっとも、その後、リンクは老朽化も進んでいたため1983年に改築され、設備も整えられるようになった。
スケートリンクには冬季のみプールに氷を張って営業するところも多いが、その場合、1年を通して練習ができない。だが、大須のリンクができてから70年近く、名古屋市内では通年営業のスケートリンクが途切れたことがない。現在、市内にある通年型のリンクは2カ所。もう一つは、鈴木明子や木原龍一などを輩出した「邦和スポーツランドみなとアイスリンク」である。愛知県内でいえば、長久手市の愛・地球博記念公園の屋内リンクと、前出の中京大学のフィギュアスケート専用リンクが加わり4カ所ある。通年型のリンクの数では、東京都と大阪府に並び全国最多である(町田樹『アーティスティックスポーツ研究序説 フィギュアスケートを基軸とした創造と享受の文化論』所収の2019年のデータを参照)。。
全国的に見れば、スケートリンクは1980年代前半に急増したものの、バブルが崩壊した1990年代初めを境に減少の一途をたどる。その点は愛知もけっして例外ではなかった。
<後編へ続く>
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