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フィギュアスケートPRESSBACK NUMBER
7歳上の浅田真央が「昌磨君はフィギュアに来なよ」宇野昌磨、浅田、安藤美姫…なぜ日本の名フィギュアスケーターは愛知から生まれるのか?
text by
近藤正高Masataka Kondo
photograph byAFLO
posted2022/04/08 17:06
ともに愛知県名古屋市生まれの浅田真央と宇野昌磨。宇野がフィギュアスケートを始めたきっかけは浅田の言葉だったという
愛知のフィギュアスケートの歴史を振り返ると、必ず名前の出てくる人物がいる。それは前出の小塚崇彦の祖父である小塚光彦(2011年、95歳で死去)だ。
小塚光彦は戦前、中国東北部に成立した満州国の官製国民組織「協和会」のカメラマンだった。20代前半で大陸に渡り、撮影のため各地をまわるなか、フィギュアスケートと出会う。現地に多数暮らしていたソ連の人たちからも学びながら、満州国の王者となり、1940年に予定されていた札幌冬季五輪の出場も目前だった。しかし、五輪は日中戦争の戦局悪化にともない返上され、夢はついえる。
終戦直後、満州から引き揚げると、1948年に同好の旧友ら数名とスケート界の復興を願って愛知県スケート連盟を発足させた。以来、光彦はフィギュアの普及と発展に努めることになる。自ら指導した息子の嗣彦は1968年のグルノーブル五輪に出場した。小塚崇彦の父親である。
「まず戦うべき相手は東京だった」
山田満知子がこの世界に入るきっかけをつくったのも光彦である。山田の回想では、5歳のころ、父親が友人宅でたまたま会った光彦から「スケートは小さいうちから始めるといいよ」と勧められたという。その2年後の1950年、名古屋では戦後初となるスケートリンクが小規模ながら今池に開場すると、さっそく通い始めた。
山田は高校時代に国体とインターハイで優勝もしたが、地元で本格的な指導をなかなか受けられないことに不満を抱いていた。上手い人はみんな東京に出ていた時代である。山田にも高校卒業後、上京を勧める声があったが、親の反対もあり地元にとどまった。
そんな山田にとって、素敵なコスチュームを着て、たとえジャンプは大きく跳べなくても、見とれてしまうような気品を持ち合わせた東京の選手は憧れだった。そんな都会的でセンスのいい人たちに、何とか勝ちたいという思いが彼女のモチベーションになっていく。指導者になってからもその思いは変わらず、東京の人たちと戦って勝てる選手を育てたいということだけを漠然と考えていたという。当時の山田には世界に打って出るなどまだ思いもよらず、まず戦うべき相手は東京だったというのが興味深い。
小5の伊藤みどりを引き取り、家族同然に暮らす
そんな彼女の前に現れたのが伊藤みどりだった。1974年のことである。当時5歳だった伊藤は、“大須のリンク”と呼ばれる名古屋スポーツセンターの近所に住んでおり、たまたま家族で遊びに来たところすっかりスケートに魅了された。それからというものリンクに通い出す。山田はその幼い少女が楽しそうに滑る姿に目を留め、自分の夢を託したのである。