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フィギュアスケートPRESSBACK NUMBER
伊藤みどり、浅田真央、宇野昌磨らを生んだフィギュア王国・愛知に異変「有力選手の県外流出も」名古屋の子どもがスケートを愛してきた理由
posted2022/04/08 17:07
text by
近藤正高Masataka Kondo
photograph by
BUNGEISHUNJU
小塚崇彦の祖父・光彦に始まり、山田満知子、伊藤みどりとつながってきた愛知のフィギュアスケート。しかしバブル崩壊後、県内でもリンクの減少が進む。
県内の豊橋市出身の鈴木明子は6歳のとき(1991年頃)、通っていた地元のスケートリンクが閉鎖となり、これをきっかけに名古屋のリンクへ電車で片道1時間半をかけて通い始める。それまでオリンピックを目指すことなど夢にも思わなかった鈴木にとって、地元のリンク閉鎖は大きな転機だったという。
名古屋市内でも、安藤美姫や浅田真央がフィギュアを始めた「星ヶ丘スポーツP&S」が1998年に閉鎖されている。ここでは夏季はプール、冬季はスケートリンクを営業していたが、その入替コストの高さなどが原因で閉鎖にいたったという。
名古屋ではまた、地方大会の会場にも使われた市内の代表的なリンクの一つ「富士スポーツセンター」が2000年に廃業している。ここのリンクは通年営業で、鍵山優真の父・正和がフィギュアを始めた場所でもあった。前後して1992年には、すぐ近くに名古屋市総合体育館(現在の通称は日本ガイシスポーツプラザ)のアイスリンク(ガイシアリーナ)が冬季限定ながらオープンしている。このため、民間の富士スポーツセンターが公共セクターの運営する体育館に客を取られたとの見方もあった。ただ、この時期にはスケートリンクが民間では採算の取りづらい施設になっていたのも確かである。
「ナゴヤでは当たり前になっている」3つのリンク
それでも名古屋市内には大須と邦和という民間の通年型のリンクが残った。冬季にはここにガイシアリーナも加わり、地元の選手の主要な練習場となっている。
スケートリンクには自前でフィギュアスケートのクラブを運営するところもある。これに対し、愛知県内のクラブはそれぞれホームリンクを持ちながらも運営は独立しており、リンクの許可が得られればクラブ員はどこででも自由に滑れる。そのため、クラブ員は貸し切り時間を求めて各リンクのあいだを移動する。大須・邦和・ガイシは、それぞれ車でなら20分ほどで移動できる近さだ。選手たちは大会近くともなれば一日に3つのリンクを掛け持ちすることも珍しくないようだ。