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MLB大低迷を救ったのは野茂英雄26歳だった…当時の報道から探る“フィーバー”の真相「荒廃していた野球界に旋風を起こしている」

posted2022/03/11 11:03

 
MLB大低迷を救ったのは野茂英雄26歳だった…当時の報道から探る“フィーバー”の真相「荒廃していた野球界に旋風を起こしている」<Number Web> photograph by Getty Images

1995年、メジャーリーグに挑戦して大旋風を巻き起こした野茂英雄

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ナガオ勝司

ナガオ勝司Katsushi Nagao

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 メジャーリーグ機構のロックアウトが、1994年の選手組合によるストライキ以来の活動停止と聞いた時、真っ先に思い出したのは、ストライキ明けの1995年の「あの出来事」だった。

 1995年――。

 それは「日本人メジャーリーガー」のパイオニア、野茂英雄氏のデビュー年である。ストライキは1994年8月12日から1995年4月2日まで232日間も続いた。近鉄バファローズを任意引退となっていた野茂氏(当時26歳)がロサンゼルス・ドジャースと契約したのも、まだストライキが続いている1995年2月13日のことだ。

マイナー契約から始まった挑戦

 同年末に出版された「We 【Love】 Nomo! アメリカ現地紙はこう報じた」(文藝春秋刊)によると、ドジャースのピーター・オマリー会長(当時)は9日付のロサンゼルス・デイリーニュースの取材に、こんなコメントを残している(以下、すべて同著より引用)。

「契約を見込めると思っている。もっとも、入札になるようなら降りるがね。また、もしも彼と契約するにしてもマイナーリーグ契約だ」

 事実、野茂氏はドジャースと契約金200万ドル(当時1億7000万円)のマイナー契約を交わし、年俸も近鉄時代の1億4000万円から980万円になった。前年に負った右肩の怪我の影響を危惧されたとはいえ、「日本のエース級投手」の価値が高くなった今では考えられないことだが、ドジャースは野茂氏を低評価していたわけではない。

 入団時に肩のMRI検査もしていないので、不安などは持っていなかったようで、プレス・ジャーナル紙はこう伝えている。

「野茂はストライキが終結すれば(終結することがあれば、と言うべきだろうが)、先発ローテーション入りすると目されている。その日が来るまではマイナーリーグ契約であり、ファームでプレーすることになる」

メディアも労使交渉の長期化を憂いていた

 メディアが長期化する労使交渉に疑念を抱いていたのは、今回と同じだ。米記者が書く当時の記事はどこか冷ややかで、たとえば野茂氏がオープン戦に登板した後には、パームビーチポスト紙がこんな記事を書いている。

「一方の野茂も、名選手に必要なベースボール界の業界用語を順調に習得しつつある。たとえば、”ストライキ”(終わったばかりだ)、”サインして”(野茂がグラウンドを去る時にねだられるものだ)、それから”労使調停”(1イニングで平均1.16個の三振を奪い続けられれば――ノーラン・ライアンよりすごい――シーズン後に野茂が叫びたくなるはずだ)などだ」

 記事中の”ストライキ”は「ストライク」、ファンがねだる”サイン”は労使協定書に選手組合がサイン=合意することに引っ掛けている。最後の”労使調停”は言わずもがなだろう。

【次ページ】 米各紙が報道した“野茂フィーバー”

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